バブル以降、ポップスの歌詞から「地名」が消えた理由――オメガトライブを通して考える
歌謡曲ではかつて多く地名の入った歌詞が歌われてきました。しかしバブルを経ると急激に減少。いったいなぜでしょうか。法政大学大学院教授の増淵敏之さんが解説します。オメガトライブというプロジェクト 暑い日が続く今夏、筆者(増淵敏之、法政大学大学院政策創造研究科教授)は時々、定番のシティポップを聴いています。 シティポップとは、1970年代後半から1980年代にかけて流行したニューミュージックのなかでも、特に都会的に洗練され、かつ洋楽志向の楽曲を総称した日本の音楽ジャンルで、ここ数年、国内外で広く再評価されています。 そんなシティポップのアーティストのひとつに、オメガトライブがあります。オメガトライブは、プロデューサー・藤田浩一の指揮の下、作曲家・林哲司と和泉常寛、アレンジャー・新川博らの制作陣を中心としたプロジェクトバンドの総称です。 ボーカルは杉山清貴、日系ブラジル人のカルロス・トシキ、新井正人と移り変わり、それぞれのバンド名は ・杉山時代:杉山清貴&オメガトライブ ・カルロス時代:1986オメガトライブ、カルロス・トシキ&オメガトライブ ・新井時代:ブランニュー・オメガトライブ でした。 1986オメガトライブのアルバム「Navigator」(画像:バップ) オメガトライブのようにバンド内で楽曲を自作し、自演するアーティストが登場する以前、日本の音楽業界では、専業の作詞家と作曲家が楽曲を作るのが一般的でした。ですから、歌手はその楽曲を歌うだけということになります。いわゆる分業制です。後年、ファクトリー(工場)ミュージックという言葉が広まりますが、分業体制のもと、工場で音楽を作るといった意味合いでした。 プロデューサーの藤田浩一は音楽事務所トライアングル・プロダクションのオーナーでもあり、かつ作詞家や作曲家、アレンジャーとのプリプロダクション、レコーディング・スタジオでのミュージシャン、エンジニアへの指示、レコード・ジャケットの決定からマーケティング戦略までの流れを一元管理していました。そういう意味では、オメガトライブのプロジェクトは紛れもなくファクトリーミュージックでした。 カルロス時代にから抽象化する歌詞カルロス時代にから抽象化する歌詞 カルロス・トシキがボーカルだった1986オメガトライブ、カルロス・トシキ&オメガトライブはヒット曲を連発しました。すでに杉山時代とは作詞、作曲を行うプロジェクトメンバーも替わっていました。 彼らの楽曲を聴いていてふと気がついたのですが、カルロス時代のオメガトライブの歌詞世界は前任の杉山時代と比べて、抽象化しています。いったいなぜでしょうか。 杉山時代には、多少なりとも具体的な地名が書き込まれていました。材木座海岸から茅ヶ崎への国道134号線を走る「海風通信」、同じ国道で葉山を抜ける「ROUTE134」などです。 「海風通信」を収録した杉山清貴&オメガトライブのアルバム「AQUA CITY」(画像:バップ) しかし1986オメガトライブ時代以降になるとそのような歌詞は皆無になります。海は「湘南」ではなく、都会は「東京」を具体的には描いていません。 前述したように杉山時代とカルロス時代以降は作詞、作曲家が変わっています。マーケティングを最重要視するファクトリーミュージックならではの、時代の変化に対する素早い反応が見え隠れします。その背景を見ていきましょう。 舞台が明確にされていない歌詞 カルロス・トシキがボーカルを務めた1986オメガトライブ、カルロス・トシキ&オメガトライブは、杉山時代の歌詞世界よりさらに海、リゾート色が強くなっています。 ヒット曲の「君は1000%」はまさにマリンリゾートが舞台ですが、「アクアマリンのままでいて」では主人公の男性がビル街のなかで夏の思い出に思いをはせます。 1986オメガトライブのシングル「君は1000%」(画像:バップ) 具体的な場所は明確にされていませんが、恐らく1980年代後半のバブルに向かう東京でしょう。 バブルが東京のイメージを変えたバブルが東京のイメージを変えた 日本全体の土地の価格総額は1990(平成2)年末の時点で、1985(昭和57)年末の2.4倍となりました。バブルのピーク時、日本全体の地価の合計は、アメリカ全体の地価合計の4倍になりました。東京圏に限っていうと、驚くべきことに1987年と1988年の住宅地価格はそれぞれ22%、69%上昇し、商業地の価格はそれぞれ48%、61%上昇しました。 地価の上昇は、地価の高い都心の一戸建て住宅や高級マンションだけでなく、都市近郊の一戸建て住宅を買うことさえも困難にしました。当時は茨城県取手、埼玉県の上尾、鴻巣、栃木県の小山などに新築住宅、マンションが次々に建設され、東京100km圏の新幹線通勤可能範囲には同様の現象が生じていました。郊外化の進展です。 一部の大企業は新幹線通勤費を負担しており、それが郊外化に拍車をかけた側面もあります。六本木交差点では午前2時過ぎまで空車のタクシーはなく、また1メーターでは乗車拒否をされることもありました。さらに、午前0時を回ればタクシーでの帰宅が認められている企業もありました。 「東京スタディーズ」(画像:紀伊國屋書店) 2005年に発表された「東京スタディーズ」(紀伊國屋書店)で、山田晴道が「脱・地名の歌詞世界の中で」の項で指摘した、ヒット曲の歌詞に東京を含む歌が減少している点がこの時点から始まっていたのかもしれません。 山田は、かつて東京が上京者や地方在住者にとって大きな魅力となっていたものの、バブルの波が全国に広がったことで、生活様式は均質化、均等化し、交通と通信の発達により地理的隔絶感も薄れたことが具体的な地名を盛り込む必然性の喪失につながったと述べています。 つまり東京を「魅力の象徴」として打ち出す必然性が、マーケティングの観点からなくなったのです。 またバブル以降、J-POPのメガヒットが乱発したことで「誰もがイメージできる抽象的な恋愛空間」を描いた方が売り上げが伸び、地名を出すことにデメリットが生じました(もちろん、ピチカートファイブの「東京は夜の7時」(1993年)などの例外はあります)。時系列的に見て、1986オメガトライブ以降の歌詞世界はその初期的なアプローチと解釈できます。 誰もイメージを仮託できる抽象的な恋愛空間を描いたのが、1986オメガトライブ、カルロス・トシキ&オメガトライブの残した楽曲だったのです。
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