日本人の「インフルエンザ対策」は明治時代の中ごろまで「おまじない」だった!

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日本人の「インフルエンザ対策」は明治時代の中ごろまで「おまじない」だった!

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昼間たかし

ルポライター、著作家

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かつての日本では、明治の中頃までインフルエンザに「まじない」で対抗していたのをご存じでしょうか。ルポライターの昼間たかしさんが解説します。

「スペイン風邪」という名の教訓

 世界で猛威を振るう新型コロナウイルスで、東京でも多くの人たちが不安な日々を過ごしています。しかし、不安のなかにも希望は存在しています。長い歴史を見れば、人類は疫病の流行に何度も見舞われつつも、それを克服してきたことが明らかだからです。

 例えば、新型コロナウイルスのパンデミック(世界的大流行)と比較してよく紹介される「スペイン風邪」。これはA型インフルエンザウイルスの感染症で、1918(大正7)年から1920年まで流行。全世界で6億人が感染、死亡者は4000~5000万人に達したと言われています。日本でも約5700万人の人口の半数近くが罹患(りかん)し、死者は40万人あまりとなりました。

 新型コロナウイルスの感染者数はいまだ増加していますが、スペイン風邪に比べて感染拡大を抑えられています。その背景には医学が発達するとともに、マスクや手洗いなどの衛生観念が広く浸透していることが挙げられます。最近の報道では、マスク着用を呼びかける当時の啓発ポスターも紹介されています。

 ちなみにスペイン風邪の流行時はインフルエンザウイルスの存在自体が未知であり、ウイルスが初めて人から分離されたのは1933(昭和8)年のことです。

人類最初のインフルエンザ、いつ発生した?

 その前の時代には、近代的な予防法が存在していませんでした。そのため、江戸時代には何度も風邪が大はやりしたことが記録されています。

インフルエンザのイメージ(画像:写真AC)



 インフルエンザは、江戸時代どころか人類の文明初期から記録されています。医学の父と呼ばれるギリシャのヒポクラテスは

「ある日突然多数の住民が高熱を出し,震えがきて咳(せき)が盛んになった。たちまち村中にこの不思議な病が拡がり,住民たちは脅(おび)えたがすぐに去っていった」

という記録を残しています。これが、人類最初のインフルエンザらしきものの流行の記録とされています。

 日本では平安時代の862(貞観4)年に書かれた歴史書『日本三代実録』に、

「一月自去冬末、京城及畿内外、多患、咳逆、死者甚衆」

という記録があります。

『日本三代実録』には咳逆(しわぶきやみ)という言葉が出てきます。これは咳の出る病気を意味し、『源氏物語』でも描かれており、少し後の時代の歴史書にも登場します。これがどういった病気だったのかは判然としませんが、人類は太古からインフルエンザやコロナウイルスのような、高熱や咳をともなう疫病に悩まされていたわけです。

 予防法の確立された現代と異なり、疫病に対して当時できるのは祈ることでした。貞観年間(859~877年)には各地で疫病や自然災害が多く、これは非業の死を遂げた怨霊のせいと考えられていました。

 そこで863年、平安京にあった神泉苑(内裏の裏にあった庭園。寺院として現存)で失脚し、非業の死を遂げた早良親王(さわらしんのう)、橘逸勢(たちばな の はやなり)、文室宮田麻呂(ふんや の みやたまろ)などを祭る「御霊会(ごりょうえ)」が行われます。

『日本三代実録』の記述によると、僧侶が読経し音楽を奏で、子どもたちが舞い、相撲や騎射などの催しが行われました。当時の人たちの考えは、怨霊に楽しんでもらい怒りを鎮めてもうというものでした。

 これは、自粛生活に疲れた東京の人たちが「密」を避けつつ、外食を楽しみ心の平穏を保っていることと似ています。

 なお、京都の祇園祭はこの「御霊会」がその始まりとされています。

インフルエンザに付けられた個性豊かな名前

 江戸時代になると、インフルエンザと見られる感染症が記録に数多く残されています。

 その数は実に20回超。こんなにはやった理由は、18世紀後半から19世紀にかけて地球全体で「ミニ氷河期」が続いたためとも言われています。当時は平和な時代で、庶民の識字率も高かったこともあり、これだけの記録が残っているのでしょう。

インフルエンザのイメージ(画像:写真AC)



 江戸時代では、流行のたびに「○○風」という名称が付けられています。その大半は当時のはやり物やはやった出来事に関連付けたものです。

 1776(安永5)年にはやった風邪は、当時流行していた浄瑠璃で毒婦とされた城木屋お駒のたたりとされ、「お駒風」と呼ばれました。1784(天明4)年の風邪は「谷風」と呼ばれています。

 谷風は、当時怪力で知られた横綱・谷風梶之助が罹患したことで名付けられました。大横綱も寝込んでしまうほどの猛威だったためか、

「水はなのたれかはせきをせかさらん関はもとよりつよき谷風」

という狂歌も詠まれています。

 谷風は無事に回復しましたが、残念ながら1795(寛政7)年に流行した「御猪狩(おいかり)風」で亡くなっています。このほかにも八百屋お七の小唄がはやっていた時期の流行には「お七風」、ねんねんころころ節という小唄がはやっていた時期には「ネンコロ風」という名前が付けられています。

明治から大正へ 30年間で普及した予防法

 これらに感染しない方法は、江戸時代から明治の中頃まで、人との接触を避ける以外にありませんでした。人を介して感染することは、なんとなく理解されていたのです。

 あとは、まじないです。時代小説『半七捕物帳』で知られる岡本綺堂の随筆「思ひ出草」に1890(明治23)年から1891年までのインフルエンザの流行が書かれています。この時は「お染風」と呼ばれていました。

 これは歌舞伎の題材でよく使われたお染・久松にちなむものです。豪商油屋の娘お染とでっちの久松が恋の末に心中する話で、歌舞伎では『於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)』としてよく知られています。

 この恋心の勢いの強さになぞらえて「お染風」と呼ばれたわけですが、岡本の文章によれば

「(感染症が)お染と名乗る以上は、これにとりつかれる患者は久松でなければならない」

というわけで、流行期の東京ではどの家も「久松留守」と軒に貼り付けていたと言われています。

 明治時代の中頃でこのような状況にもかかわらず、スペイン風邪のとき(1918~1920年)にマスクやうがい手洗いが普及していたのを見ると、予防法がすさまじい勢いで知られていったことがわかります。

東京のイメージ(画像:写真AC)

 新型コロナウイルスは長らく人類を脅かしてきたインフルエンザに続く新たな脅威となりましたが、予防法がほぼ一緒ということは、ある意味救いとも言えます。東京で再び街歩きを楽しめる状況にするためにも、現在は一層の予防意識が求められています。

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