路面電車が食文化を変えた!――昭和3年の銀座にお子様ランチが現れた理由【後編】
昭和時代のデパートの食堂を象徴するメニュー、お子様ランチ。お子様ランチはデパートの専売特許ではなく、銀座のレストランでも出されていました。また、お子様ランチだけでなく、お子様寿司というものも存在しました。なぜ昭和初期のデパートやレストランは子ども向けのメニューをそろえたのでしょうか?洋食大衆化の歴史書である『串かつの戦前史』において、お子様ランチの出現とその理由を書いた、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。 大正時代末のデパートの業態変換お子様ランチ(画像:photo AC) 昭和3年7月6日の時事新報の記事「食堂めぐり(14)」によると、銀座松坂屋食堂において「子供ランチ」「御子様ずし」が、7月13日の記事「食堂めぐり(16)」によると、銀座のレストラン「銀座エスキモー」において「子供ランチ」が出されていたとあります。 なぜ昭和3年の銀座のデパートやレストランは、子ども向けのメニューをそろえたのでしょうか? >>関連記事:大正生まれの作家も食べた憧れの洋食――昭和3年の銀座にお子様ランチが現れた理由【前編】 “第一次世界大戦後の不況や、関東大震災以降の東京における区画整理などを経て、日本における百貨店は大衆化と店舗規模の拡大を経営方針に掲げるようになっており、地上一九階、地下二階と当時世界最大の百貨店であったニューヨークのメーシー百貨店を代表として、百貨店の高層化、大規模化が進展していたアメリカの百貨店が、日本の百貨店経営陣にとって新たな模範となっていたのである。”(加藤諭『戦前期日本における百貨店』2019年刊) 日本のデパートは大正時代末に、それまで目標としていたロンドンのハロッズのような高級路線から、アメリカのメイシーのような大衆路線へと方針転換しました。 “結局百貨店は安物の多賣(たばい)主義に落ちてゆくのである。” “薄利多賣―それを文字通りやつてゆかうとするのが今日の百貨店である 。”(大阪朝日新聞経済部編『続 商売うらおもて』1926年刊) 現在の銀座のデパートは、落ち着いた雰囲気の中で高級品を売る店ですが、お子様ランチを出し始めた昭和3年頃のデパートは、大量集客して薄利多売で儲ける、現在でいうところのディスカウントストアに近い業態だったのです。 ディスカウントストア化した昭和初期のデパート “百貨店のやり口の中で小賣(こうり)業者の立場から、苦情の種子となるものの一つは、百貨店の不當廉賣(ふとうれんばい)である。”(桝本卯平(ますもとうへい)『百貨店をどう見るか』1929年刊) 当時のデパートは、他の小売業者から不当廉売と非難されるまでに安売り路線に徹していました。そして薄利多売のためには、大量に集客する必要がありました。 “百貨店はあらゆる方法と經費(けいひ)とをつかつて宣傳(せんでん)と客引きに没頭する” “百貨店の客引き策―これほど興味のある問題はない。或(あ)る店では大人を惹(ひ)き付けやうとし、或る店では子供を取り込まうとする”(大阪朝日新聞経済部編『続 商売うらおもて』(1926年刊) 現在の銀座のデパートは、子どもを重要顧客として捉えてはいないでしょうが、薄利多売のディスカウントストアであった当時のデパートは“子供を取り込まうとする”、つまり子どもを重要顧客としてとらえていたのです。 なにせ子どもは、必ず一人以上の大人をつれてきますし、ライフステージごとにさまざまなものを買ってくれます。ディスカウントストア化したデパートにとって、子どもは上客だったのです。 なので昭和初期のデパートは、子ども向けの催し物を開き、屋上に遊園地や動物園を設置し、食堂でお子様ランチやお子様寿司を提供し、積極的に子どもたちを集客しようとしたのです。 浅草松屋の日本初の屋上遊園地(画像:社史編集委員会編『松屋百年史』1969年刊より)「銀ブラ」の誕生 一方、大量集客/薄利多売の必要のない「銀座エスキモー」のような銀座のレストランは、なぜお子様ランチを出したのでしょうか? 「銀座エスキモー」の「子供ランチ」をとりあげた 時事新報(1928年7月13日)の記事の副題は「銀座漫歩のお客あてこみの輕(かる)い食事と飲み物探り」。 「銀座エスキモー」は銀座漫歩、つまり「銀ブラ」の顧客をあてこんでいたのです。 作家・内田魯庵(ろあん)は、明治時代はじめに銀座近くに住んでいました。内田魯庵によると、交通が不便であったその頃の銀座見物は、浅草や上野から来る場合であっても、宿泊を伴う「旅行」だったそうです。 “其の頃は市内の交通がマダ不便だつたから山の手や淺草下谷の場末(其の頃は淺草下谷は下町でも場末だつた)から泊り掛けでワザワザ煉瓦の新市街を見物に來る泊り客が絶えなかつた”(『内田魯庵全集 3』所収「銀座繁昌記」初出1929年) 泊りがけの銀座旅行が、気軽な「銀ブラ」になったのは、1903年以降に路面電車が整備されてからです。安価で便利な路面電車によって、人力車と馬車と徒歩の時代には不可能だった、気軽な銀座見物ができるようになったのです。 そのような銀ブラ客相手に、銀座では外食業が発展したのでした。 女性の外食行動の変化夜の銀座通り。『大東京寫眞帖(しゃしんちょう)』刊年不明より (画像:国会図書館ウェブサイト) 路面電車の発達は、女性の外食行動に変化を及ぼしました。 1933年刊の白木正光『大東京うまいもの食べある記』 の冒頭には、女性の外食行動の歴史が書かれています。 かつての女性の外食といえば、そば屋、寿司屋、汁粉屋に入るぐらいのものでした。しなしながら、大正時代から昭和初期にかけて発達したデパートの食堂と路面電車が、女性たちの行動を変えました。 “デパートの食堂はさうした氣苦勞(きぐろう)は微塵もなく、サツサと這入(はい)れて、そして氣やすく自分の好む食物が食べられ、お代もごく輕少(けいしょう)で濟(す)むのですから、何條(なんでう)デパートを我物の婦人連が見のがしませう。” 路面電車の発達により、女性は男性の同伴を伴わずに、一人であるいは子どもを連れて遠出ができるようになりました。母親たちは子どもを連れて銀ブラし、デパートの食堂に入るようになったのです(拙著『串かつの戦前史』においてその実例をあげています)。 「旦那が働いている間に、女房は子どもと銀座でランチ」という光景が出現したのが、大正時代から昭和初期にかけての時期なのです。 このように、母親と子どもだけで、あるいは子ども連れの家族が、銀ブラをする習慣が生まれました。そんな銀ブラの子ども連れ客を呼び込むために、「銀座エスキモー」などのレストランは、お子様ランチをメニューに加えるようになったのです。
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