約50年前に地図から消滅 府中市を走った幻の路線「下河原線」をご存じか
約50年前、地図から消えた「下河原線」という路線をご存じでしょうか。今回、ライターの野村宏平さんがその跡をたどります。総延長は10km足らず 京王線と京王競馬場線、JR南武線と武蔵野線、西武多摩川線が走り、14の駅を有する東京都府中市は、多摩地域のなかでも鉄道網が充実したエリアといえるでしょう。 しかし今から50年近く前、地図から消えた路線があります。府中市を南北に走っていた国鉄(現JR)下河原線です。 1967(昭和42)年発行の地図。下河原線の記載がある(画像:国土地理院) 単線で総延長10km足らずの短い路線でしたが、その歴史をたどってみたいと思います。 府中最初の鉄道だった下河原線 1910(明治43)年、東京砂利鉄道が国分寺駅と下河原(現・府中市南町)間に開通させた路線が下河原線の始まりです。現在の府中市域では初めての鉄道でしたが、当初は旅客輸送はおこなわず、多摩川の砂利の採取と運搬を専用にしていました。 ところが1914(大正3)年、多摩川の氾濫によって線路の一部が流され、運休を余儀なくされてしまいます。2年後、陸軍によって修復され、軍用鉄道として使用されましたが、1920年に鉄道省(後の国鉄)が買収。中央本線貨物支線となりました。 大正から昭和初期にかけてのこの時代、府中市域では下河原線に続いて新しい鉄路が次々と敷かれています。 ・1916年:京王電気軌道(現・京王電鉄)の調布~府中間 ・1917~1922年:多摩鉄道(現・西武多摩川線)の境(現・武蔵境)~是政間 ・1925年:玉南電気鉄道(翌1926年に京王電気軌道に合併)の府中~東八王子(現・京王八王子)間 ・1928~1929年:南武鉄道(現・JR南武線)の大丸(現・南多摩)~立川間 下河原線に大きな転機が訪れたのは、1933(昭和8)年、目黒にあった東京競馬場が府中に移転してきてからです。翌1934年、東京競馬場の西方まで引き込み線を敷設し、東京競馬場前駅を開設。競馬開催日に限って旅客輸送を開始するようになりました。 東京競馬場前駅ホーム。1973年撮影(画像:野村宏平) 東京競馬場前駅は南武鉄道の府中本町駅のすぐ近くに設けられましたが、南武鉄道が当時私鉄だったこともあり、乗換駅にはなりませんでした。 その後、国分寺との中間に設けられた富士見仮信号場(現・北府中駅)周辺には府中刑務所、日本製鋼所、東京芝浦電気(現・東芝)、陸軍燃料廠(戦後は米軍府中基地。現・府中の森公園)ができ、これらへの専用引き込み線も敷設されました。 太平洋戦争中、旅客営業は休止されましたが、国分寺~富士見仮信号場間では、軍需工場の従業員を輸送する専用電車が運転されたということです。 戦後の下河原線戦後の下河原線 下河原線の営業が再開したのは、戦後2年を経た1947(昭和22)年からでした。1949年には、国分寺~東京競馬場前間の常時旅客輸送を開始。1956年には、それまで信号場だった北府中が駅に昇格します。 1973年の東京競馬場前駅の時刻表を見ると、日中は上り下りとも1時間1~2本の割合で運行されていたことがわかります。朝の通勤時間帯には国分寺~北府中、北府中~東京競馬場前という一駅だけを往復する区間運転もあったようです。 すずかけ通りから見た下河原線廃線跡。右側下を通る武蔵野線はここから地下に潜る(画像:野村宏平) 通常は1両編成でしたが、競馬開催日には、東京駅から東京競馬場前駅までの臨時直通電車が6~7両編成で走りました。1955年に京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の競馬場線も開業したので、この時期には新宿から東京競馬場へ直通する鉄道ルートが2種類あったことになります。 ちなみに、国鉄一長い駅名が「東京競馬場前」、私鉄一長い駅名が京王の「府中競馬正門前」といわれた時期もありました。 しかし1973年春に武蔵野線が開通すると、府中本町~西国分寺間のルートと重複する下河原線の旅客輸送は打ち切られました。北府中~下河原間の貨物線は武蔵野線に編入されましたが、1976年に廃止され、下河原線は66年の歴史に幕を閉じたのです。 下河原線の廃線跡はどうなっている? 下河原線の廃線跡が現在どうなっているのか、たどってみましょう。 国分寺駅の下河原線ホームは中央線の南側にありましたが、1988(昭和63)年、駅ビル工事によって撤去され、現在は跡形も残っていません。 国分寺駅を出た下河原線はしばらく中央線と並行しながら西進したのち、現在の西国分寺駅(1973年、武蔵野線開通と同時に開業)の手前で南方へとカーブしていました。当時、線路の南側には旧国鉄の教育施設だった中央鉄道学園がありましたが、1987年、国鉄が分割民営化される際に閉鎖され、現在は都立武蔵国分寺公園や立川から移転してきた都立多摩図書館(ともに国分寺市泉町)、団地などに変貌しています。 周辺には武蔵国分寺跡や東京都指定名勝の「真姿(ますがた)の池湧水群」、清流沿いの遊歩道「お鷹の道」などがあり、武蔵野の歴史と自然に触れるには最適の場所です。 お鷹の道(画像:野村宏平) 西国分寺駅の南方までカーブを続けた下河原線は現在の武蔵野線と同じルートで南下、国分寺市から府中市へ入り、北府中駅へ向かっていました。 前述したように、かつてここからは東芝府中事業所、日本製鋼所東京製作所、府中刑務所、陸軍燃料廠へも引き込み線が伸びていましたが、現在残っているのは東芝の専用線のみです。 日本製鋼所の跡地はオフィスビルや大型商業施設が立ち並ぶ府中インテリジェントパーク(府中市日鋼町)として再開発され、燃料廠へと続いていた長い引き込み線は富士見通りという道路に生まれ変わりました。 なお、府中刑務所の北側を通る学園通りは、1968年に発生した「三億円事件」の犯行現場としても知られています。 緑道として整備された廃線跡緑道として整備された廃線跡 北府中駅を出た下河原線は武蔵野線の西側を通っていました。インテリジェントパークへと至るすずかけ通りでは、武蔵野線と島忠府中店の間に、廃線の跡を見ることができます。 道路反対側の線路跡にはビルが建てられてしまいましたが、その裏手にまわると、下河原線広場公園(府中市寿町)という駅のホームを模した細長い公園があります。これが下河原線の跡地です。 下河原線広場公園。レールが敷かれ、ホームと駅名標を模したモニュメントがあるが、駅の跡地というわけではない(画像:野村宏平) 公園の南を横切る国道20号(甲州街道)を越えたところから、廃線跡は自転車・歩行者専用道「下河原緑道」として整備されています。 京王線の高架下をくぐると、ここにかつて鉄道が敷かれていたことを示すように、路上にレールが埋め込まれた場所があります。 その先は、宿場町の面影を残す旧甲州街道との交差点。右に行けば室町幕府初代将軍・足利尊氏を開祖とする高安寺(同市片町)、左に行けば江戸時代の姿をとどめる高札場や武蔵国の総社・大國魂神社(同市宮町)があります。東京2020オリンピックの自転車競技ロードレースでは、大國魂神社の境内を世界の一流サイクリストたちが駆け抜けていきました。 アニメや映画にも登場 旧甲州街道の南側では緑道上にあるマンホールのふたに注目してみましょう。アニメや実写映画でもヒットした末次由紀の競技かるた漫画『ちはやふる』のキャラクターの絵が描かれているのです。 この作品は府中市内が主要舞台となっており、下河原緑道が南武線をまたぐ「みょうらいばし」付近もアニメや映画に登場しました。この橋上は緑道のなかでもっとも見晴らしのいいスポットで、かなたには多摩丘陵が望めます。 ゆるやかな坂を下ると、緑道は二股に分岐します。右が旧下河原駅に向かう貨物線跡、左が旧東京競馬場前駅へ向かう旅客線跡です。 現在の東京競馬場前駅跡。前方を南武線と武蔵野貨物線が横切る(画像:野村宏平) 左へ進むと、間もなく東京競馬場前駅の跡地に到着します。駅舎やレールなどは残っていませんが、左右を遊歩道に挟まれた細長い植え込みがかつてのホームをほうふつとさせます。 目の前を南武線と武蔵野貨物線が横切っていますが、その下に設けられた地下道をくぐると競馬場方面に出られます。南武線と武蔵野線が接続する府中本町駅は目と鼻の先です。 田園地帯を走っていた貨物線田園地帯を走っていた貨物線 分岐点まで戻り、今度は下河原方面に向かってみましょう。 中央自動車道の下を抜けると周囲には田園風景が広がり、新田川(しんでんがわ)緑道と交差します。新田川緑道は農業用水路にふたをして整備された緑道で、鎌倉時代後期に北条泰家率いる鎌倉幕府と新田義貞率いる反幕府軍が戦った分倍河原古戦場へとつながっています。 現在、都立多摩職業能力開発センター府中校が建っているあたりが、かつての下河原貨物駅。下河原緑道はもう少し先まで続いている(画像:野村宏平) 下河原緑道はこの先、西に向かって大きくカーブします。左手に見えてくる森は、府中市郷土の森博物館(府中市南町)です。砂利採掘場の跡を利用して造られた施設で、博物館とプラネタリウムのほか、かつて府中市内にあった小学校校舎や町役場庁舎、商家や農家などの復元建築物が展示されています。入館料が必要ですが、地形を利用して武蔵野の原風景を再現した園内は見る価値があります。 さらに進むと、左手に都立多摩職業能力開発センター府中校(同)が建っていますが、このあたりが貨物駅だった下河原駅の跡地です。ヤードを備えた大きな駅で、線路は西方の下河原八幡神社の先まで続いていたようです。ここまで来れば、京王線の中河原駅がすぐ近くです。
- 国分寺