下町情緒ただよう両国に「国際ファッションセンター」というおしゃれな名前のビルが建っているワケ

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下町情緒ただよう両国に「国際ファッションセンター」というおしゃれな名前のビルが建っているワケ

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真砂町金助

フリーライター

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武線両国駅から徒歩約6分の場所に「国際ファッションセンター」という名のビルがあります。下町の両国にファッションセンター? いったいなぜでしょうか。フリーライターの真砂町金助さんが解説します。

なぜ両国にあるのか?

 下町情緒ただよう両国エリアに、そのイメージとは不釣り合いなビルがあるのをご存じでしょうか。その名は「国際ファッションセンター」。江戸東京博物館の並び、日本大学第一中学・高等学校の隣にある第一ホテル両国(以上、墨田区横網)が入居しているビルです。総武線両国駅東口・西口から徒歩約6分の場所にあります。

墨田区横網にある国際ファッションセンター(画像:(C)Google)



 東京を代表する流行の発信地・原宿や渋谷ならともかく、どのような事情で両国にファッションセンターができたのでしょうか。

 ビルの建設計画が持ち上がったのは、1990(平成2)年3月のこと。それまで同地には本所区役所以来の歴史ある墨田区役所第一庁舎がありました。

 そんな区役所の移転にともない、跡地を利用する目的で計画されたのが「東京ファッションセンター」でした。ちなみに現在の区役所の場所には、かつてアサヒビールの工場がありました。

 当時の報道でも、墨田区とファッションの組み合わせに対する違和感は指摘されていましたが、計画は至って真面目なものでした。当時の墨田区には町工場がまだ多く存在しており、

・ニット
・シャツ
・下着

の製造事業所数は23区で1位となっていたのです(『東京都事業所統計調査報告 昭和61年』)。

 ファッションは東京の産業として実績があり、将来有望と見られていました。なお時を同じくして、臨海副都心には東京商工会議所が「有明南ファッションタウン」を計画。2000年までにファッション専門の新商品展示場やオフィス棟、デパート、店舗が入居する商業施設の建設を発表していました(『朝日新聞』1990年1月12日付朝刊)。

 そんな時代にあって、墨田区の計画は壮大でした。目玉になったのは「東京インスティテュート・オブ・ファッション・アンド・テクノロジー(東京IFT)」という教育機関です。

忍び寄るバブル景気とその崩壊

 東京IFTの入学対象者は大学・短大・各種学校で学んだ人たちで、ファッション専門の大学院のような機関になるとされていました。またミュージアムや会議場なども併設し、東京都立繊維工業試験場(現・東京都立産業技術研究センター)も計画されていました。

 さらには東京IFTを財団法人にして、規制や基準に縛られない教育を実施。講師にはファッション産業の実務家を招聘(しょうへい)するなどといった話も。予算規模は東京IFTが40億円、ミュージアムが60億円という大規模なものでした。

 1991年になって、計画は期待を帯びてきます。当時の通産省が1992年に「ファッション産業人材育成機構」を発足させ、ファッション人材の育成に乗り出してきたからです。このための資金として東京都が10億円、墨田区が20億円を分担することになり、常設の校舎として「九五年に都内墨田区と江東区に完成する国際ファッションセンターと東京ファッションセンターをあてる」とされています(『毎日新聞』1991年10月3日付朝刊)。

 しかし、計画はバブル景気の崩壊とともに破綻していきます。最初に完成したのは第三セクターによる東京ファッションタウンビル(1996年開業)でしたが、設立当初から運営難に陥り、2005年には民事再生手続きが開始。2006年に東京ビックサイト(江東区有明)に吸収合併されています。現在も名称は変わっていませんが、ファッションを感じさせる要素はまったくありません。

江東区有明にある東京ファッションタウンビル東館・西館(画像:(C)Google)



 一方、墨田区の国際ファッションセンターはさらに混迷を極めていました。計画では、東京IFTやミュージアムはビルの6割をオフィスにして、その賃料で事業費を捻出するとされていました。そのために同じく第三セクターとして設立されたものの、いざ募集を開始してみるとオフィスの借り手は少なく、採算をとれるめどが立たなくなったのです。

 ビルは両国という土地にとってかなり過剰なものでした。当初は8階建ての予定でしたが、バブルの勢いで21階建てに変更。ところが、景気悪化でオフィスは供給過剰に。都心から離れた両国にオフィスを借りる企業は現れなかったのです。1994年頃には建設計画も止まり、野ざらしの空き地は警察がレッカー移動した車の保管場所になっていました(『朝日新聞』1994年5月14日付)。

 計画が再始動したのは、1995年になってからです。オフィス賃貸による運営が困難と判断した墨田区は、ホテルの誘致を決定。現在メインテナントになっている「第一ホテル両国」が入居することで話がまとまりました。

計画の成功・失敗のはざまで

 結局、建物は25階建てに決定。総床面積4万6500平方メートルのうち、ホテル部分が約1万8500平方メートルを占めることとなりました。

墨田区横網にある国際ファッションセンター(画像:(C)Google)



 本来の目的だったホールや会議室などの産業振興用フロアは9000平方メートルと、当初の約3分の1に縮小。こうして国際ファッションセンターは2000年4月、ようやく完成したのです。東京都立産業技術研究センター墨田支所の誘致に成功、またファッション産業人材育成機構も入居し、ビジネス・スクールを開校しています。

 しかし、大学院レベルの教育機関やミュージアムはかないませんでした。そんな行政の迷走とは別に、墨田区のニット産業は現在も堅実に続けられています。

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