東京駅「八重洲」方面はかつて駅の「裏口」扱いだった!

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東京駅「八重洲」方面はかつて駅の「裏口」扱いだった!

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大居候

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「日本の玄関口」である東京駅――。そんな東京駅の八重洲口にはかつて橋の架かった外堀があり、駅の「裏口」扱いを受けていました。その歴史について、フリーライターの大居候さんが解説します。

丸の内口より八重洲口は地味?

 東京駅の八重洲口は、丸の内口と比べて「2番手」というイメージが否めません。

東京駅の八重洲口(画像:写真AC)



 新幹線のホームがあるのは八重洲口寄りで、高速バスのターミナルがあるのも八重洲口ですが、なぜか東京駅の象徴的な風景として使われるのは、いつも赤レンガの駅舎のほうです。八重洲口が紹介されることは、まずありません。

 さて、そんな東京駅が開業したのは1914(大正3)年のこと。当時、現在の八重洲口側には駅の出入り口がなく、外堀が南北に走り、駅側の鉄道用地と日本橋・京橋方面を分断していました。

 外堀沿いには江戸時代から河岸が設けられており、水運の荷揚げなどに使われていました。この外堀には八重洲橋(1884年完成)が架かっていましたが、東京駅が開業する際に廃止されました。

 そのため、日本橋や京橋に住む人が東京駅から鉄道を利用する際には、八重洲橋を挟む形で架かっていた呉服橋・鍛冶橋を渡ってから通りを歩き、丸ノ内口まで行かなければなりませんでした。

 この状態が解消されたのは、1929(昭和4)年です。関東大震災の復興再開発事業の一環として、八重洲橋は幅45mの道路を兼ねた橋として再び架橋されました。この際、駅の入り口も新設され、八重洲側に改札口が誕生しました。

八重洲通りを作る際に起きたトラブル

 そんな八重洲側の改札口ですが、計画は以前から存在していました。

1920年頃の東京駅周辺の地図。八重洲通りはまだない(画像:国土地理院)

 東京駅の東側に出入り口をつくる最初の計画が浮上したのは、1920(大正9)年の都市計画です。この計画では、現在の八重洲通りのもとになる大通りを建設し「東京駅裏口(当時はこう呼ばれていました)」へのアクセスルートとすることを目指していました。

 ところが、現在の八重洲通りにあたる部分は日本橋区と京橋区の境界になっていたことから両区で意見が分かれます。

 日本橋区側の上槇町(かみまきちょう)側で立ち退きを実施して道路を建設するか、京橋区側の下槇町側に立ち退いてもらうかで両区民の間で意見が対立、「槇町問題」と呼ばれる論争になったのです。

 この「どちらの土地を削るか」問題の対立は、震災を経て抜本的な都市計画の実施が可能になったことでようやく解決しました。ようやく完成した八重洲口ですが、戦前を通して、表玄関である丸ノ内口の裏口というポジションは変わりませんでした。

「鉄道会館ビル」の記憶

 八重洲口が「日本橋・京橋方面の繁華街へ通じる玄関口」としての地位を確立するのは戦後になってからでした。

 太平洋戦争後、このエリアで焼土やがれきを除去するため、河川の埋め立てが実施されました。そのなかで、外堀も1948(昭和23)年に埋められることに。

 外堀を埋め立てた後の1954年に完成したのが、2007(平成19)年の閉店まで八重洲口の顔となっていた駅ビル「鉄道会館ビル」でした。

在りし日の鉄道会館ビル。2008年3月撮影(画像:(C)Google)



 外堀の埋め立てが決まった時点で、鉄道会館ビルの建設計画はありませんでした。当初の予定では、八重洲口の駅前広場は現在よりも北側に建設されることになっていました。しかし、それがどういうわけか計画が変わり鉄道会館ビルと国際観光会館が建設されたのです。

 このふたつの建物は、現在「グラントウキョウノースタワー」「グラントウキョウサウスタワー」のある辺りに位置していました。当初の計画通りであれば、八重洲口の駅前広場とロータリーは現在よりも北側にできていたわけです。

 計画が変更になった理由は定かではありませんが、戦災復興のための大規模都市改造を推し進めた安井誠一郎都知事(当時)の意向が強く働いたためではないかと考えられています。

開発の追い風になった東京五輪の開催決定

 ビルを建設したことで八重洲口ににぎわいが生まれたことは事実です。ただ、駅前広場用の用地を確保しなければならなくなりました。その結果、埋め立てられた外堀に沿って建っていた家屋の立ち退きが求められることになったのです。

 当初は難行するかと思われた交渉ですが、東京オリンピックの開催決定が追い風になり、解決に至ります。こうして1963年には八重洲口の駅前広場が整備され、現在の八重洲口の原型は完成したのでした。

1963年頃の東京駅周辺の航空写真(画像:国土地理院)

 こうして生まれた八重洲口ですが、地名としての八重洲があるのは中央区で、1丁目と2丁目があります。

 では、八重洲は中央区固有の地名かといえば、そうではありません。もともと八重洲という地名は、現在の千代田区の区域に存在していたものでした。

 江戸時代には馬場先門近くに「八代洲河岸(やよすがし)」といった地名があり、明治時代になると、1872(明治5)年に麹町区八重洲町1~2丁目が設置。ただ、この八重洲町は丸ノ内口側にありました。前述の外堀に架かっていた橋が八重洲橋と呼ばれたのは、八重洲方面につながる橋だったからです。

いくつものドラマがあった八重洲口

 そのため、1929(昭和4)年に東西に改札口が設けられた時点では、現在の「丸ノ内口」「八重洲口」の呼称はなく、西は「八重洲町口」、東は「八重洲橋口」と呼ばれていました。ただ、この呼称は短期間のみのもので、同年に麹町区の町名再編が実施され、八重洲町が廃止されると「丸ノ内口」「八重洲口」に変更されました。

 こうして一時は地名としては消滅した八重洲ですが、1939年に八重洲通りが完成したことで道路の通称名として復活します。

 道路の通称名でしかなかった八重洲が、町名として復活したのは1954年のことです。この年に旧日本橋区の日本橋呉服橋1~3丁目が八重洲1~3丁目に、旧京橋区の槇町1~3丁目が八重洲4~6丁目に改称されます(のち1978年に旧日本橋区側が八重洲1丁目、旧京橋区側が八重洲2丁目となりました)。

 この町名が採用されたのは、1954年に町名整理で改称する際、旧京橋区槇町のほうで八重洲に改称する運動が盛り上がったからでした。中央区教育委員会が編纂した『中央区の昔を語る4』(1991年)によれば、槇町2丁目で八重洲にしようという運動が盛り上がり周囲も賛同して、決まったとされています。

東京駅の八重洲口(画像:写真AC)



 改札口の完成から、地名までいくつものドラマがあった八重洲口。歴史の深さを感じざるを得ません。

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