いったい何者? 東京にやたらと「太田道灌」の伝説が残っているワケ

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いったい何者? 東京にやたらと「太田道灌」の伝説が残っているワケ

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春日ルナ

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東京について調べ物をしていると、あちこちで見かけるのが「太田道灌」の名前。いったいなぜでしょうか。ライターの春日ルナさんが解説します。

江戸城を築いた太田道灌

 日本各地にはさまざまな伝説や伝承が残されています。東京にもそのような土地がいろいろありますが、やたらと目にするのが「太田道灌」の名前です。どうして東京はこんなにも太田道灌だらけなのでしょうか? その理由を探ります。

太田道灌(画像:千代田区観光協会)



 太田道灌は、室町時代後期に関東で活躍した武将(1432~1486年)です。軍法師範と称された一方で、歌人としても知られた文武両道の人物でした。何より知られているのは江戸城を築いたこと。水利がよく広大な平野が広がる江戸には、のちに徳川家康が幕府を開いて都市をつくりますが、道灌は江戸が発展する可能性を見いだしていました。

 太田道灌にまつわる伝説といえば、一番よく知られているのは「山吹の里」の伝説です。「山吹の里」の伝説は次のような内容です。

 ある日タカ狩りに出た太田道灌。ところがにわか雨にあってしまい、近くにあった農家のに立ち寄り、その家の娘に蓑(みの)を所望します。ところが娘は、蓑ではなく和歌とともに山吹を一枝だけ差し出しました。道灌は理由もわからずそこを後にしますが、のちに和歌の意味を知り、蓑のひとつも貸すことができない娘の苦しい心のうちを知ったといいます。

 和歌は、

「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」

というもの。実のならない山吹と「蓑(実の)ひとつだにない」という意味を掛けています。

 これは娘のつくったものではなく、『後拾遺和歌集』に収録されている兼明親王(914~987年)の作品。道灌はこれを知らなかったことを恥じ、のちに武芸だけではなく和歌の勉強にも努めたといいます。

 このエピソードは昭和の戦後はまだ有名だったようで長谷川町子の『サザエさん』にも「みのひとつだになきぞかなしき」というフレーズが登場するシーンがあります。ちなみに落語の演目にもなっています。

関東一円で多くの伝説を残す道灌

「山吹の里」はどこなのか……というのが知りたいところですが、都内の複数の場所が手を挙げています。下記は都内の候補地です。

・山吹の花一枝像(荒川区西日暮里)
・山吹の里公園(豊島区高田)
・太田道灌の史跡(同)
・大聖院(新宿区新宿)
・新宿中央公園(同区西新宿)

荒川区西日暮里にある山吹の花一枝像(画像:荒川区)

 このほか、埼玉県越生町も有力な地であり、山吹の里歴史公園がつくられています。

 太田道灌にまつわる言い伝えとしてほかにも、川崎市幸区にある丘陵地帯・夢見ヶ崎(ゆめみがさき)の地名は、道灌が見た夢に由来する話、さいたま市北区奈良町の「三貫清水」は道灌が「とてもうまい」といって三貫文(50万円)の褒美を授けたことに由来する話があります。

 都内だけではなく、関東一円で多くの伝説を残している太田道灌。最期の地となった神奈川県伊勢原市では毎年10月に「道灌まつり」が行われています(新型コロナウイルスの感染拡大の影響で2021年は中止)。

太田道灌がやってくるまでの東京

 そもそも、太田道灌はなぜこんなにも関東のあちこちに出没しているのでしょうか。

「太田道灌は何をした人?」と聞かれたとき、多くの人は前述のように

・江戸城をつくった人
・江戸の街をつくった人

と答えるでしょう。そこに大きなヒントがあります。

新宿中央公園にある太田道灌の像(画像:写真AC)



 都内や近郊で博物館に行ってその街の歴史をたどる常設展を見ると、ある共通点に気づきます。

 それは、縄文時代の遺跡の説明や土器などの遺物の展示には力が入っているにもかかわらず、江戸時代の展示までのあいだの古代や中世にはほとんど触れられていないケースが多いことです。つまり、太田道灌がやってくるまでの東京は

「何もないといっても差し支えない場所」

だったわけです。

道灌の生い立ち

 太田道灌は、室町時代(1432年)に鎌倉公方(くぼう)を補佐する関東管領(かんれい)上杉氏の一族・扇谷上杉家の家宰(かさい。家長にかわって家の仕事を取りしきる人)だった太田資清(すけきよ)の子として生まれました。

 鎌倉公方とは、室町幕府が関東を支配するためにつくった出先機関です。その後、家督を継ぎますが、将軍家や公方家、管領家の争いのなかにあり、穏やかではない人生でした。

 古河公方(茨城県古河市にあった幕府の出先機関)との争いで、道灌は父とともに河越城(埼玉県川越市)や岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)を築いたとされます(岩槻城は別の説もあり)。その後、房総の千葉氏を抑えるために、利根川下流域に城を築く必要が生じます。そこで築城する場所として決めたのが、江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡。のちに江戸城と呼ばれる城です。

江戸城・皇居(画像:写真AC)

 この地に定めたことについても

「霊夢のお告げがあった」
「品川沖を行く道灌の舟にコノシロという魚が踊り入り、吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立った」

などの言い伝えがありますが、定かではありません。ともかく城は無事に築かれ、周辺には日枝神社や平河天満宮などがつくられました。また、皇居には現在も「道灌堀」という名前の堀が残されています。

 歴史的事実は古文書や古記録、あるいは発掘の成果から明らかにされますが、道灌のことを逐一追ったもの、当時の江戸(いまだ江戸ではない場所)を記したものは残されておらず、道灌は江戸の祖として「伝説の存在」だといえるのです。そして、道灌の伝説がいたるところに広まったというわけなのです。

北区赤羽にも城を築いた道灌

 ほかにも道灌は今の北区赤羽に稲付城を築いています。

 ここは鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点となっていた場所。街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたものです。

 当時の城は天守閣などはないいわゆる「山城」で、太田道灌がつくったいくつかの城も一般にイメージされる「城」とは異なります。

 ただし、この稲付城の跡は現在、静勝寺という曹洞(そうとう)宗の寺院になっており、「木造太田道灌坐像(ざぞう)附厨子(ずし)」を所蔵。像は道灌の命日である7月26日にちなんで、毎月26日に開扉されます。

木造太田道灌坐像附厨子(画像:北区飛鳥山博物館)



 道灌堂は道灌の二百五十回忌にあたる1735(享保20)年に建立、厨子は三百五十回忌にあたる1835(天保6)年に製作されました。この像の複製品と関連資料が北区飛鳥山博物館に展示されています。

 1486(文明18)年、伊勢原にいた道灌は風呂場を出たところで暗殺され、55年の生涯を閉じました。

太田道灌は江戸の「大本」?

 ここまで見てきたように、東京の土地と伝説は太田道灌に始まり、開かれたものだといえます。しかし、太田道灌よりも前にひとつだけよく知られている伝説の土地があるのです。そのヒントが神田明神です。

千代田区外神田にある現在の神田明神(画像:写真AC)

 神田明神は現在の場所(千代田区外神田)に移る前、現在の大手町にありました。しかし、その場所の付近で天変地異が多発したために現在の場所に移転されたといいます。天変地異が起きたのは平将門の首が京都から持ち帰られ、ここに祭られたためといわれています。そして平将門のたたりなのか、疫病がはやったそうです。

 もともと神田明神があった場所は現在「平将門の首塚」として大手町のオフィス街の一角に存在しています。これまで、土地・建物の再開発で何度も移転させようとしては、そのたびに「悪いこと」が起こり、今は禁忌の地としてオカルトマニア以外にも知られるような有名な場所になりました。

 その平将門の起こした乱から数百年して、江戸の基礎を築いた太田道灌。一介の武将であり、確かに存在した人物ですが、江戸の祖として背負う逸話の数は伝説級。動物や植物の起源を負うとたどり着くひとつの種のように、太田道灌は江戸の大本になっているといえるかもしれません。

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