生き別れの妹に会いたい――東京でひとり願い続けて、突然姿を消した孤独な男性会社員の話

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生き別れの妹に会いたい――東京でひとり願い続けて、突然姿を消した孤独な男性会社員の話

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佐藤栄一

東京裏路地ウォッチャー

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華やかできらびやかな街というイメージが強い東京。しかし、大通りから1本路地に入れば、そこには昔懐かしい住宅地が広がり、名も知らぬ人々がそれぞれの人生を生きています。今回紹介するのは、異国に暮らす生き別れの妹を思う男性の話です。

東京でひとり生きた、ある男性の人生について

 きらびやかなばかりが東京ではない――。都心のふとした片隅に突如現れる、昭和のまま取り残されたような異空間。そこにもまた名も知らぬ人々が暮らし、大切な今日をただひたむきに生きていました。

※ ※ ※

 日本からブラジルへの移民は1908(明治41)年に始まり、その数は25万人以上に上るといいます。

 ブラジルの肥沃(ひよく)な大地と、日本での日雇い労働の2倍も稼げるという話に夢を託し、大きな覚悟で人々は海を渡りました。そして彼らは慣れない赤土との何重もの苦難に立ち向かいます。

 成功する者、失敗する者。幾人もの人生がその地に編まれました。

昭和30年代、9歳のときに家族4人でブラジルへ

 戦後になって、神戸のメリケン波止場から南米などに移住した日本人は約6万3000人。これから紹介するのもそのひとりです。

 ヤマグチさんは昭和30年代、9歳のときに両親と2歳半の妹と家族4人でブラジルへ渡りました。移民船「あるぜんちな丸」でおよそ40日間。長い航海でした。

生き別れになった妹に会いたい――。そう願い、東京でひとり生きた男性の人生について(画像:写真AC)



 しかし父親は交通事故で、母親は病に倒れて相次いで亡くなり、妹と遠い親せきに預けられて育ちます。

 不幸が続いた新天地にいい思い出は少なく、子ども時代、兄妹は生きていくために他人には話せない苦労をいくつも経験したといいます。肩を寄せ合うように幼少期を過ごしました。

異国で成功を収めた者と、収められなかった者

 筆者の友人に、農業機械メーカーに勤める男性がいます。

 彼によると、出張でブラジルを訪れるたび感じるのは、多くの日系人が大農場での品種改良や工場の経営、貿易などに携わり、現地の人々からも厚く尊敬をされているということ。

 移民政策当時の、コーヒー農園で過酷な環境に耐える移民労働者というイメージはもはや面影もないとのこと。日本人の誠実さ、有能さに対する評価は、地球の裏側でも定着しているというのです。110年以上にわたり先人たちが積み重ねた苦難と努力の賜物なのでしょう。

 もちろん全ての日系移民が成功を収められたわけではありません。祖国を離れ、生活に暗い影を落とす人もいました。ヤマグチさんはおそらく、後者のうちのひとりでした。

妹と生き別れ、ひとり東京で働き続けた何十年

 ヤマグチさんは二十歳を過ぎた頃、東京へやってきました。自分の「根っこ」となるのは、生まれ育った日本だと感じたからです。

 ブラジルに残った妹とは生き別れになります。現地に頼りにできる人はおらず、途中、住所を書いたメモを無くしてしまい、連絡の取りようがなくなってしまったのです。

 ヤマグチさんは建設関係の仕事や、運送会社、タクシー会社、造園会社と、世田谷区や大田区で職を転々としました。

 人付き合いは苦手ですが、どこの職場でも仕事ぶりは真面目。きれい好きで、仕事の後片づけを他人の分まで念入りにしていた姿を、かつての同僚たちが目撃しています。20代の頃は日系ブラジル人社会での付き合いもそこそこあったようですが、彼自身が多くは語らなかったため、詳しいことは分かりません。

 過去に何度か、ブラジルへ赴いて妹を探しましたが、どうしても見つからない。現地の新聞にお尋ね記事を掲載し、公的機関にも依頼しましたが、手掛かりはつかめないままでした。

「10日ばかり休みたい」。そう言い残して彼は

「妹は俺を頼りにしているはずだ」
「妹を幸せにしてあげなくては」

 そんな思いが頭から離れず、ヤマグチさんの落胆の日々は長く続きました。

 そして2~3年ほど前の9月、ある日の終業後、勤める会社に「用事があるので10日ばかり休みたい」とだけ言い残し、そのまま姿を消しました。

「10日ばかり休みたい」。会社にそう告げ、そのまま男性は東京から姿を消した(画像:写真AC)



 彼の消息は意外な形で判明します。やはりブラジルへ渡っていて、どうしたことか、貸しコテージ内でひとり亡くなっていたというのです。

 所持していたパスポートや手帳の個人情報をたどって、領事館から勤務先に連絡が入りました。死因は心臓麻痺(まひ)らしいとだけは聞けたものの、詳しくは知らされなかったとのこと。

 会社の同僚が東京にある彼のアパートへ整理に行くと、部屋はきれいに片付けられ、家財はほとんど見当たりませんでした。タンスも空っぽの状態でした。

「あんなに元気だったのに、まさか突然亡くなってしまうなんて」――。半生を賭けて探し求めた妹とは、ついに会えずじまいでした。

「どこか故郷の香をのせて」歌詞に込めた思い

 皮肉にもヤマグチさんの死後、探し続けていた妹が見つかり、彼との対面を果たしました。待ち望んでいた、幾年月ぶりかの再会でした。

 仕事の後、近所のカラオケスナックへ行くと「あゝ上野駅」など昭和のヒット曲を歌っていたヤマグチさん。

<どこかに故郷の 香をのせて
 入る列車の なつかしさ
 上野は俺らの 心の駅だ
 くじけちゃならない 人生が
 あの日ここから 始まった>

1964年の東京五輪を控え、「金の卵」と呼ばれた若者たちが何人も降り立った東京・上野駅。その場所に、男性は自分自身を重ねていたのかもしれない(画像:写真AC)



 この曲が発表されたのは、東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年。ヤマグチさんは当時ブラジルにいました。二十歳過ぎにひとり東京へ戻り、いつどのようにしてこの曲を知り、どのような気持ちでこの歌詞を口ずさんできたのでしょう。

 生涯独身を通しましたが、親しい人には「このままだと俺はひとりぼっちで死んでいくのかな」とどこか自嘲気味に話していました。

 筆者も東京の空の下、たまたま仕事の関係で知り合った知人のひとりです。

 彼の身の上に興味を持った筆者にヤマグチさんはあくまで口数少なでしたが、それでもなお日系ブラジル人社会の話を聞こうとすると、ただ困ったような笑顔を返すのみ。もう少し、彼の身になって掛けるべき言葉があったのではと思い返します。

ただ懸命に働いたヤマグチさんの人生について

 ブラジルからたったひとり東京へ降り立ち、無口なまま懸命に働き、やがてかげろうのようにいなくなってしまったヤマグチさん。

 東京下町の幻灯機に彼の人生が映し出されるとしたら、どのような絵になるのでしょう。

※記事の内容は、個人のプライバシーに配慮し一部編集、加工しています。

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