都心の空に轟く爆音 日比谷野音が「屋外ライブの聖地」になったワケ

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都心の空に轟く爆音 日比谷野音が「屋外ライブの聖地」になったワケ

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小渕晃

音楽ライター、bmr元編集長

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1923年の開設以降、さまざまなイベントが行われてきた日比谷公園大音楽堂。同施設は一般的に「屋外ライブの聖地」として知られています。その歴史について、音楽ライターで、ブラック・ミュージック専門誌「bmr」元編集長の小渕晃さんが解説します。

都内で最大のライブ会場として開設

 日比谷公園大音楽堂(野音。千代田区日比谷公園)で見るライブの大きな魅力は、自然がもたらす光の演出です。開演時刻にはまだ明るかった会場は、夕暮れとともに闇に包まれ、ライブ終盤にはあたり一面が真っ暗に。ステージの照明は闇が深まるに連れて輝きを増し、非日常空間を演出します。野外ライブならではの特別な体験に、見る者の心は躍ります。

 野音は1923(大正12)年に開設されました。公園内には明治時代に開設された、日本最古の野外ライブ会場とされる小音楽堂もありますが、「野音」と言ったときにはほとんどの場合、大音楽堂を指します。

 現在の野音の最大集客数は、立ち見席と車いす席を含めて3053人。しかし以前はつくりが違い、9000人の立ち見客であふれることもある、都内最大のライブ会場でした。後に、第2次世界大戦を経て連合国軍総司令部(GHQ)から返還された1954(昭和29)年と、老朽化を理由とした1983年の改装によって現在の姿になります。

抽選で当たらないと大物でも使用できない

 野音が特別なライブ会場とされる理由のひとつは、「抽選に当たらなければ利用できない」ことです。

日比谷公園大音楽堂(画像:写真AC)



 東京都が所管する野音は、例えば17~21時のライブ時使用料が15万8400円と格安ですが、公共施設ゆえ、使用機会の平等化のため、使用権はプロ・アマの区別なく行われる抽選でしか得られません。

 しかも寒さの厳しい11月~3月はクローズ。さらに皇居にも程近い野音の周囲は、国の中枢機関が集まる官公庁街であり、オフィス街。騒音対策のため、音楽系イベントでの使用は 土・日・祝日に限られています。

 ゆえにライブができるのは年間70組ほど。使用希望日の1年前に行われる抽選の倍率は「50~100倍」と言います。野音のライブ、それはファンのみならずアーティストにとっても特別なものなのです。

日本のロックの、そしてフォークの聖地に

 記録に残る野音ライブで最初に記すべきは、「史上最も偉大なシンガー」のひとり、フランク・シナトラの初来日公演です。子供たちのための慈善活動を目的としたワールド・ツアーの一環で、1962年4月、超満員の野音で行われた伝説のライブは映像も残されています。

 その数年後、野音は学生運動の集会場として知られるようになります。そういった、反体制派の拠点としての意味合いにも引かれた成毛滋(なるも しげる)らが主催したのが、1969年9月に行われた「ニューロック・ジャム・コンサート」、通称「10円コンサート」でした。

 成毛はこのひと月前にアメリカで「ウッドストック・フェスティバル」を体験。その興奮を伝えるべく、ミッキー吉野や内田裕也らと日本初のロック・フェスティバルを開催したのです。

 翌1970年にはゴールデン・カップスやフラワー・トラヴェリン・バンドも出演した「第3回 日本ロック・フェスティバル」が、1971年にはブルース・クリエイション、はっぴいえんども参加した「日比谷ロック・フェスティバル」が続けて催され、野音は日本のロックの聖地として認識されていきます。

1971年発表の岡林信康「自作自演コンサート 狂い咲き」(画像:ディウレコード、URC)



 加えて、1971年には「フォークの神様」と呼ばれた岡林信康が「自作自演コンサート 狂い咲き」を開催。レコード化もされたこのライブもまた人々に語り継がれ、野音はロックのみならずフォークの聖地としても人気を博しました。

キャロルやRCサクセションによる伝説のライブ

 1975年には、野音最大の伝説であるキャロルの解散ライブが行われました。

 矢沢永吉やジョニー大倉らが組むバンドは、舘ひろしや岩城滉一らの組むクールスが護衛を務めたこのライブをもって活動を終了。「CAROL」と描かれた電飾が焼け落ちるというこれ以上ないハプニングも含めて、TV放映もされたこのライブは、野音という会場の神格化に大きく寄与します。

解散コンサートを収録したキャロル「燃えつきる~ラスト・ライヴ」(画像:ユニバーサル ミュージックジャパン)

 1977年には、トップ・アイドルだったキャンディーズが野音ライブ中に解散を発表。「普通の女の子に戻りたい」というセリフが広く知られ、社会現象となりました。

 伝説の解散ライブが数々行われた一方、野音での熱狂的なライブで人気を高めていったアーティストも数多くいます。

 10代の頃から野音を「ホーム」とし、多くの名ライブを繰り広げてきたのがチャー。中でも1979年7月の、ジョニー、ルイス&チャー結成お披露目無料ライブはレコード化もされ伝説の一夜に。

 そして、野音と言えばRCサクセションという方も多いでしょう。1981年のこれまた伝説と語り継がれるステージを皮切りに、RCの「夏の野音」は毎年の恒例行事に。1986年のステージを収録したライブ・アルバム「the TEARS OF a CLOWN」は特に人気です。

数々の事件が生まれた野音のステージ

 1982年には突然の豪雨に襲われ、メンバーは感電しながらもステージに立ち続けたザ・モッズの「雨の野音」が。1984年には尾崎豊の照明灯飛び降り骨折事件が。と、トラブルが話題になることも少なくないなか、1987年、ラフィン・ノーズのライブで観客が将棋倒しとなり、死傷者が出たことは最大の悲劇として記憶されます。

 一方でこの1987年からSHOW-YAが始めた、「NAONのYAON」は野音名物のひとつに。文字通り女性ばかりが出演するフェスティバルで、今も続く人気ぶりです。

 1990年代以降はライブ観客数の全体的な増加に伴い、野音も日本武道館(千代田区北の丸公園)と同じように若手ミュージシャンの登竜門的存在になっています。

1996年発表の「さんピンCAMP」ビデオ(画像:cutting edge)



 また、1996年には、日本初のヒップホップ・フェスティバルで今も語り継がれる「さんピンCAMP」が行われるなど、さまざまなジャンルのアーティストに愛されるようになった野音。

 31年連続単独ライブを開催中のエレファント・カシマシに代表されるように、野音にこだわるロック・バンドもいまだ多く、2年後の2023年には創設100周年を迎えますが会場そのものの人気が衰える気配はありません。

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