絶望の文豪・太宰治が「三鷹の借家」で生きる希望を見出したワケ

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絶望の文豪・太宰治が「三鷹の借家」で生きる希望を見出したワケ

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鹿間羊市

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没後70年を超えてなお、多くの読者を魅了する作家・太宰治。ついのすみかとして過ごした東京・三鷹の地で、彼が見たものとは何だったのか? フリーライターの鹿間羊市さんがその足跡をたどります。

「生きていさえすればいいのよ」

“人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ”

 太宰治の晩年に書かれた短編、『ヴィヨンの妻』を締めくくる台詞です。戦後の混乱期、それまでの道徳や常識が根底から覆されていくなかで、それでも最後に残る「生きることそのもの」を肯定する力強いフレーズとして、多くの人の心を掴んでいます。

太宰は昭和14年9月、三鷹の借家に移転。そこがついのすみかとなった(画像:写真AC)



『ヴィヨンの妻』は、居酒屋の酒代を踏み倒し続けたあげく、盗みまで働いた夫の身代わりに、その酒場で働くことになった妻の視点から展開される物語です。

 夫は身体の弱い子どもを顧みず、何日も家を空けて浮気や浪費を繰り返す「人非人」、いわゆる「人でなし」であり、太宰作品において典型的な「作者投影型」の登場人物となっています。

 自身や子ども、さらには周囲にまで迷惑をかけ続け、自分の非を認めるどころか「家族でよい正月を過ごしたかったから」と盗みを正当化する夫に対し、あっけらかんと「生きていさえすればいい」と言い放つ妻の態度には、どこか太宰自身の理想が映し出されているようにも思えます。

尊厳と恥をめぐる葛藤

 太宰治ほど、作品との間の距離が近い作家もいないでしょう。多くの作品のモチーフになっているのは彼自身が経験した「没落」であり、それに伴うさまざまな「恥」が、物語の主軸に据えられています。

「恥の多い生涯を送って来ました」という『人間失格』の冒頭はあまりに有名ですが、太宰は作家活動において道化のように振る舞いながら、自らの「恥」を見世物として供してきたと言っても過言ではありません。

 太宰の作品をいくつか読んだことのある方であれば、「恥の多い人生」を構成する要素のひとつとして、名家に生まれたことに対する捻(ねじ)れたコンプレックスがあることを読み取ることができるでしょう。自身の20代頃の東京生活を振り返る自伝的作品『東京八景』においては、自らの出自について以下のような言及が見られます。

“私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持の子というハンデキャップに、やけくそを起していたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。”

 自らの生まれに対する負い目や、特権意識に対する嫌悪が読み取れます。しかし同時に、自身のうちにある高貴な側面を捨てきれないことが、数多く経験する「恥」の根本にあったことも確かでしょう。

坂口安吾による太宰分析

 太宰の友人であり、彼と同じく「無頼派」の文豪としても知られる坂口安吾は、太宰の死をめぐる随筆『不良少年とキリスト』において以下のように書いています。

“太宰という男は、親兄弟、家庭というものに、いためつけられた妙チキリンな不良少年であった。
生れが、どうだ、と、つまらんことばかり、云ってやがる。強迫観念である。そのアゲク、奴は、本当に、華族の子供、天皇の子供かなんかであればいい、と内々思って、そういうクダラン夢想が、奴の内々の人生であった。”

 出自をめぐる負い目と嫌悪と誇り、そのように複雑に捻れた自尊感情が、太宰の苦悩の核心にありました。見栄を張るなどくだらない、と思う一方で、どうしても承認欲求に振り回されてしまうのです。

 誰のうちにもあるそのような葛藤に踊らされ、自らの踊る様を作品へと昇華するという構造が、太宰作品にはしばしば見受けられます。それは読者の共感を強く喚起する要素となる一方で、太宰自身にとっては、その都度新たな苦悩を生み出す「永久機関」のように働いていたのでしょう。

 恥に苦しみ、その恥を文学として披露してみせ、またそれが新たな恥の種になる。そのような循環のなかでもがき続けた太宰にとって、「生きていさえすればいい」という究極的な肯定が、どれほど意味を持つものであったのかは想像に難くありません。

『東京八景』における「武蔵野の夕陽」

 先に挙げた『東京八景』は、上京してからの荒廃した生活の末に、三鷹でのつつましい暮らしに太宰が折り合いをつけていく、自己受容の物語として読むことができます。

 自らの没落を象徴するような「武蔵野の夕陽」のイメージに重ね、妻に決意を語るシーンは、自意識に振り回される道化としての太宰のイメージとは、少し異なる印象を与えるでしょう。

“毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」”

 高い自尊感情の呪縛から解放され、目の前にある暮らし、「生きることそのもの」を肯定する太宰の姿がここにはあります。あとから見れば、これは一時的な決意にすぎないのですが、太宰が三鷹での生活のなかで「生きていさえいればいい」といった心境に至ったことは本当らしく思われます。

「武蔵野の夕陽」に至るまでの苦悩

 とはいえ自尊心の高い太宰にとって、「武蔵野」での暮らしは本来満足できるようなものではなかったはずです。

 万葉集から国木田独歩の随筆まで、武蔵野は「田園風景の象徴」として数多くの作品に描かれてきました。現在でも23区外は都内と見なされないことがままあり、居住エリアのヒエラルキーを気にする人たちにとって、「武蔵野」のイメージは受け入れがたい面もあると考えられます。

 武蔵野の地で暮らす自分自身を受容するまでに、太宰はどのような変化をたどったのでしょうか。

 大学進学に際して上京し、東京市(現在の23区エリアに相当)の地図を広げたときに抱いた希望について、太宰はこう振り返ります。

“隅田川。浅草。牛込。赤坂。ああなんでも在る。行こうと思えば、いつでも、すぐに行けるのだ。私は、奇蹟を見るような気さえした。”

 都会に対する憧憬(しょうけい)と期待が見て取れますが、実際のところ、戸塚町(現在の高田馬場や西早稲田周辺)や神田、五反田などを転々としていく彼の都心生活は、まったく明るいものではありませんでした。

『東京八景』の前半には、非合法な左翼運動への参与や、留年を繰り返しながら仕送りをもらい続ける負い目、芸者との恋と家族の反対、鎌倉での心中未遂といった暗澹(あんたん)たる日々が描かれています。

「遺書」としての小説

 こうした憂き目の多い20代、彼にとって小説を書くことは「自殺の前段階」として位置づけられていたようです。

“遺書を綴った。「思い出」百枚である。今では、この「思い出」が私の処女作という事になっている。自分の幼時からの悪を、飾らずに書いて置きたいと思ったのである。”

 若い頃の彼にとって小説は「遺書」であり、どうしようもない人間として生きてきた自分の恥を形として残すことが、彼にとって唯一自覚された「役割」だったと言います。

“ばかな、滅亡の民の一人として、死んで行こうと、覚悟をきめていた。時潮が私に振り当てた役割を、忠実に演じてやろうと思った。必ず人に負けてやる、という悲しい卑屈な役割を。”

「生きること」へと向かいはじめた転機

 ところが30歳頃を境に、太宰にとっての「書くことの意義」は変化していきます。「死の準備」から「生きるための術」になっていくのです。

“何の転機で、そうなったろう。私は、生きなければならぬと思った。”

 自殺未遂を繰り返し、周囲の人々から見放され、孤独に極貧生活を送るなか、相次ぐ親族の死や、衆議院議員に当選した兄の選挙違反容疑といった生家の不幸を通じ、先の「生まれ」に対するコンプレックスに変化が生じます。

“気が附いてみると、私は金持の子供どころか、着て出る着物さえ無い賤民であった。故郷からの仕送りの金も、ことし一年で切れる筈だ。既に戸籍は、分けられて在る。しかも私の生まれて育った故郷の家も、いまは不仕合わせの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである”

 負い目に感じなければならないような特権など、自身にはもはや一つもないことに気づいたことにより、肩の荷が下りたのかもしれません。自分への期待やプレッシャーを一旦脇に退け、太宰は30歳にして明確に文筆業を志すことになります。

自身の現状を受容する

“こんどは、遺書として書くのではなかった。生きて行く為に、書いたのだ。”

 シンプルながら、力強いフレーズです。生きることに対するある種の「開き直り」的な態度を通じて、太宰は肥大した自意識に対する折り合いをつけていくことになります。

“私は、いまは一箇の原稿生活者である。旅に出ても宿帳には、こだわらず、文筆業と書いている。苦しさは在っても、めったに言わない。以前にまさる苦しさは在っても私は微笑を装っている。ばか共は、私を俗化したと言っている。”

「一箇の原稿生活者」とはすなわち、遺書のように私的動機に振り回されるのではなく、職業として何かを書く、ということを意味しています。プロとしての顔を身につけた、と換言してもいいでしょう。自分のくだらないプライドなど構うことなく、生きていくために地に足をつけるのだという覚悟がうかがえます。

「武蔵野の夕陽」はなぜ美しいか

 先に引いた「武蔵野の夕陽」のもとでの妻への決意表明は、ちょうどこの文の直後に言及されます。その後の文脈も合わせて、再度引用しておきましょう。

“毎日、武蔵野の夕陽は、大きい。ぶるぶる煮えたぎって落ちている。私は、夕陽の見える三畳間にあぐらをかいて、侘しい食事をしながら妻に言った。「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」その時に、ふと東京八景を思いついたのである。過去が、走馬燈のように胸の中で廻った。
ここは東京市外ではあるが、すぐ近くの井の頭公園も、東京名所の一つに数えられているのだから、此の武蔵野の夕陽を東京八景の中に加入させたって、差支え無い。”

西日が差す三鷹の3畳間で、文豪は何を思っていたのか(画像:写真AC)



 東京市内であるかどうか(23区内であるかどうか)といった外面的なことはもはや問題ではなく、目の前にあるものに美しさを見いだす太宰の心情が描写されています。

 このとき「ふと東京八景を思いついた」のは、現在の自分のあり方を受容したことにより、今までの出来事に対しても積極的な意義づけを行える状態になったことを表しているのでしょう。

「東京市外」の夕陽は、富や名誉に囲まれて暮らすことがかなわなかった、当時の太宰の現状を象徴しています。東京を代表する景色のうちに、この武蔵野の夕陽を数え入れることには、「生きているのだから、それで十分じゃないか」という姿勢が表れていると言えるでしょう。

 出自や名声に人一倍悩んだ太宰だからこそ、恥や外聞など関係のない、剥き出しの「生きることそのもの」について、作品のなかでことさら美しく表現できたのかもしれません。

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