深刻な渋滞、旧住民対策……数多の困難を乗り越え作られた巨大実験都市「多摩ニュータウン」の半世紀
2021年3月27日
知る!TOKYO高度経済成長期の人口爆発にともない作られた、日本最大規模のニュータウン「多摩ニュータウン」。その歴史は実に波乱に富んだものでした。フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。
住宅問題が深刻化していた昭和の東京
東京や大阪といった都市圏は、高度経済成長期になって人口が爆発的に増加しました。そのため、住宅問題を悩みとして抱えることになります。
行政は住宅問題を解決するべく、ニュータウンの開発に乗り出します。特に住宅問題が深刻化していた東京では、ニュータウンの開発地として稲城市・多摩市・八王子市・町田市にまたがる多摩エリアに白羽の矢が立てられました。これが、多摩ニュータウンです。
2984ha、約30万人の居住人口を想定して進められたニュータウンの造成は、壮大な計画といえるものでした。
ニュータウンの開発は前例がなかったわけではありません。
東京に先んじて大阪では1958(昭和33)年から、人口15万人を想定した千里ニュータウン(大阪府豊中市・吹田市)の計画が決まり、1961年には工事が着手されています。
しかし造成において、土地の買収などがスムーズに進まない課題が浮き彫りとなり、それらを踏まえて、行政の強権発動を可能にする「新住宅地開発法」が1963年に制定されることになったのです。
開発に立ちはだかった多くの問題
さて、東京郊外に造成されたニュータウンは多摩ニュータウンと名づけられ、深刻化する住宅難を解消する切り札と期待されました。

しかし、多摩ニュータウンの開発には多くの問題が立ちはだかります。
都心部の住宅難を解放するための政策だったこともあり、当然ながらニュータウンに引っ越してくる居住者たちは、それまで都心に住み、都心で働く人たちでした。
そうした人たちが新たにマイホームを構えて郊外生活を始める――とはいえ、仕事場は都心です。そうした生活を成り立たせるためには、通勤の足となる鉄道の整備が欠かせません。当然、行政も鉄道の整備を盛り込んだ開発計画を練っていました。
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