今ならネットで大炎上? 大家が強気すぎた昭和の賃貸事情

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今ならネットで大炎上? 大家が強気すぎた昭和の賃貸事情

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猫柳蓮

フリーライター

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住みたい物件が簡単に見つかる現代と違って、昭和時代は物件を探すのも一苦労でした。加えて大家も高圧的だったといいます。フリーライターの猫柳蓮さんが解説します。

漫画『エプロンおばさん』の背後にある事情

 漫画『サザエさん』で知られる長谷川町子さんですが、そのほかにも『エプロンおばさん』という作品があるのをご存じでしょうか。

 エプロンおばさんの一家や下宿人の生活が描かれており、『サンデー毎日』で1957(昭和32)年から7年あまり連載されました。当時の世相や時事ネタが作中に取り入れられているため、戦後復興から1964年の東京オリンピックへ向かう時代の様子がよくわかります。

昭和テイストのアパート(画像:写真AC)



 このエプロンおばさんがやっていたのが、素人下宿です。言葉の明確な定義はありませんが、一般の家庭が空いている部屋を他人に貸すことで、いわゆる貸間です。夏目漱石の『こころ』でも主人公の先生が部屋を探していて、素人下宿を紹介されるというくだりがあるので、明治時代には既に存在した言葉のようです。

『エプロンおばさん』の連載当時、この素人下宿がとても増えていました。というのも経済成長によって上京する人が増加し、一般的な賃貸物件が払底していたからです。

 1961年末には996万7209人だった東京都の人口は、1962年2月にはついに1000万人を突破。今となっては考えられませんが、わずか3か月あまりで4万人の人口増がありました。この頃、東京は年間30万人ずつ人口が増えているともいわれ、それに対応するだけの部屋が簡単に見つかるはずもなかったのです。

 ましてやインターネットで簡単に物件情報を得られる現在と違って、足とコネクションを使って部屋を探していた人が多かったため、その大変さは想像以上でした。

「学生不可」が珍しくなかった時代

 そんななか、人が殺到したのは当然家賃が手頃なエリアです。

 中でも中央線沿線は新宿や丸の内方面へ直行できるとあって、需要が高まっていました。駅前があまりにぎやかでなかった東中野は特に人気の土地で、1962年頃には駅前に48軒もの不動産屋がひしめきあっていました(『週刊文春』1962年4月9日号)。

東中野エリア(画像:写真AC)



 現在は何軒あるのか実際に数えてみると22軒で、48軒の半分以下です。それだけでも当時がいかに多かったかがわかります。

 そんな不動産屋業にも変化が起きていました。女性の増加です。

 それまで不動産業は男性の仕事と思われていましたが、上京して来たばかりで不安な客には女性のほうが丁寧だろうと当時は考えられ、徐々に女性が増加していました。

 また当時は高圧的な大家が多い時代でした。漫画『美味しんぼ』で主人公の山岡士郎が栗田ゆう子と結婚して月島に家を借りるとき、人を見てから貸すかどうかを決めるという偏屈な大家とのもめ事を描いた回がありましたが、あの数十倍高圧的な大家が多数派でした。

 前述の1962年『週刊文春』の記事にはこんな記述があります。

「店頭の張り札を見ると、『独身サラリーマンに限る』『子持ちお断り』『学生は不可』『独身女性は不可』とか色々な条件が明記されている」

 学生専門の物件以外、学生不可は多数。学生を入れた日には、マージャンをやったり酒を飲んだり、友達を連れてきたりとうるさいというわけです。

入居条件が厳しかったワケ

 一番歓迎されるのは「身元のはっきりしたサラリーマン」で、それ以外は難色を示されていました。今どきこんな条件を出していたら間違いなくネット上で炎上必至ですが、当時はそれが当たり前という空気があったのです。

 対して「この人はダメ、あの人はダメ」という大家を説得するのも不動産屋の腕でした。そういえば筆者が大学生のとき、男性の先輩のなかになぜか女性専用アパートに住んでいる人がいました。なんでも最初に仲介した不動産屋がミスをしたのが原因だったらしく、大家を説得して無事に住むことができたそうです。

昭和テイストのアパート(画像:写真AC)



 こんなに条件が厳しかったのは、住宅のつくりが理由と考えられます。

 素人下宿はほぼ家族同然の居住空間。アパートでもトイレや台所は共用ですから、今のアパートより家族的な距離感です。その距離感の近さゆえに、住む人を選ぶのは必然だったのでしょう。

 プライバシーもあまり守られない空間ですが、そんな距離の近いところで一度くらい他人と生活してみるのも、今となっては面白いのかもしれません。

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