「合成地名」とは何か
東京のあちこちに「合成地名」があるのをご存じでしょうか。合成地名とは、ふたつ以上の地名からそれぞれの一部を合わせて作った新しい地名で、有名どころでは
・旧大森区 + 旧蒲田区 = 大田区
・清戸 + 柳瀬川 = 清瀬
などがあります。
ほかにも、世田谷区「代沢」は代田と北沢の、足立区「梅島」は梅田と島根の合成地名。文京区「本駒込」は、駒込と呼ばれる地名を冠する地域が豊島区と文京区の双方に存在することから、1966年(昭和41)年に住居表示を実施する際、文京区側が新町名として旧本郷区の駒込という意味で本駒込と名付けたものです(かつて豊島区には駒込妙義坂下・駒込染井、文京区には駒込動坂町・駒込神明町などがありました)。
こうした資料を眺めていると、少々気になることを見つけました。それは、新宿区に隣接する「中野」区の由来です。
中野区の名前の由来とは
中野区は、豊多摩郡を含む周辺5郡が1932(昭和7)年に東京市へ編入されて35区が誕生した際に成立した区ですが、その名前の由来は当時合併した
・中野町
・野方町
から一字ずつ取って作られた合成地名であるというのです。
なぜ筆者が不思議に思ったのかというと、「中野」という名前自体は極めて古くから存在しているからです。初出は熊野那智大社(和歌山県那智勝浦町)に伝わる「武蔵国願文」に記された「中野郷」で、1362(貞治元)年の文書とされています。
その9年後にあたる1371(建徳2)年頃、後に「中野長者」と呼ばれる商人・鈴木九郎が誕生。鈴木氏はもともと熊野の豪族でしたが、九郎は東へ降り、当時まだ住む人も少なかった中野を開拓。財を成したと言われています。
そんな九郎が熊野十二所権現(熊野那智大社、熊野本宮大社、熊野速玉大社に祭られている12の神)を祭ったのが新宿区にある熊野神社(新宿区西新宿)で、娘の死を悲しんで仏門に入った後に中野坂上駅近くの成願寺(中野区本町)を創建したとされています。
長らく中野郷と呼ばれていたこの地は、江戸時代になってから行政区画が定められ、中野村という地名に。その後、1897(明治30)年に前述の中野町となりました。
野方の名前の由来とは
一方の「野方」ですが、江戸時代、周辺の天領(江戸幕府直轄の領地)と旗本領(旗本身分の武士の領地)が複雑に入り組んだ地域があり、それを「野方領」と呼んでいたことに由来します。その範囲は、現在の板橋区辺りまで及んでいました。
そして1889(明治22)年の町村制施行の際、現在の江古田や沼袋辺りの村がまとめられ、野方村と名付けられ、1924(大正13)年)に野方町が誕生しました。
「中野」は中野町からか、それとも合成地名か
こうして見ると、極めて古くから存在する中野という地名から中野区という名前が生まれたように思えますが、実は合成地名――という資料の説には何か事情があるのでしょうか。
いろいろと調べて見ると、1932年に中野区となったのは、誕生当時から町の中心地が中野町だったからという背景があるようです。
この地域に最初の鉄道駅となる「中野駅」ができたのは1889(明治22)年で、甲武鉄道(現在の中央線)が新宿~立川駅間に開業時のことでした。
当時の駅はもう少し西側にあり、現在地に駅ができたのは1929(昭和4)年のことですが、いずれにしても地域の中心地は中野駅がある中野町でした。このため、区名が中野区ということになったようです。
しかしそれでは野方町の住人たちが納得しないため、古くからの中野という地名ではなく、中野と野方から一文字ずつを取ったいうことにしたと考えられます。
地理研究家・浅井建爾(けんじ)さんの『日本全国 合成地名の事典』(東京堂出版)でも、合成地名と考えることが妥当だという説が記されています。
有力者による口約束があったのか
中野町になる以前の1889年時点から鉄道が開通していた中野に対して、沼袋・野方・鷺宮に駅が開業したのは1927(昭和2)年のことです(西武新宿線の前身にあたる西武村山線)。
郊外都市として発展しつつある中野町と農村地帯の雰囲気が強い野方村とはかなりギャップがあったため、合併も、新区名もすんなり行われたとは到底考えられません。
当時の文献を見ても、合成地名で中野区に決めたという具体的な証拠は見当たりませんが、合成地名の説がこれだけまかり通っているのは、土地の有力者同士の間で「合成地名という理屈にしよう」という妥協案というべき、口約束があったのではないかと考えられます。
彼らはそれぞれの町の住民を納得させる必要があるため、これがもっとも説得しやすい方便だったということでしょう。とはいえ、これらの経緯を記した新史料の発見が望まれるところです。