21年大河ドラマの主人公「渋沢栄一」もかつて理事長を務めた「二松学舎大学」とはどのような大学なのか

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21年大河ドラマの主人公「渋沢栄一」もかつて理事長を務めた「二松学舎大学」とはどのような大学なのか

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中山まち子

教育ジャーナリスト

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1877年に開学した漢学塾をルーツに持つ二松学舎大学。その魅力について、教育ジャーナリストの中山まち子さんが解説します。

ルーツは漢学塾、歴史は140年以上

 東京都内の大学のなかで、明治初期まで起源がさかのぼれる大学のひとつに、二松学舎(にしょうがくしゃ)大学があります。

二松学舎大学の九段キャンパス(画像:(C)Google)



 同大のルーツは、1877(明治10)年に漢学者・三島中州(ちゅうしゅう)が開いた漢学塾「二松学舍」で、明治から令和という140年以上という長きに渡り、同じ地で多くの学生を受け入れ、世に送り出してきました。

 九段キャンパス(千代田区三番町)と柏キャンパス(千葉県柏市)があり、特に九段キャンパスは全国的に「桜の名所」として名高い千鳥ヶ淵から近くの一等地にあります。

 1949(昭和24)年に二松学舎専門学校を新制大学に移行した二松学舎大学は現在、

●文学部
・国文学科
・中国文学科
・都市文化デザイン科

●国際政治経済学部
・国際政治経済学科
・国際経営学科

の2学部5学科を持つ、学部生2976人の小規模大学です(2020年5月1日現在)。

西洋文化への過度な傾倒を危惧した創立者

 文明開化吹き荒れる東京で、西洋文化へ過度に傾倒する風潮を危惧した三島のカラーは、現在も大学に色濃く残っています。

二松学舎大学の柏キャンパス(画像:(C)Google)



 ほぼ同時期に開学の起源を持つ早稲田大学(新宿区戸塚町)や明治大学(千代田区神田駿河台)と比べて、二松学舎大学には英文学系の学部学科はありません。

 大学の教育方針として、日本人としての道徳観を持ち、各分野で活躍する人材養成を掲げています。

かつて舎長を務めたのは政財界の重鎮

 二松学舎大学の歴史を語る上で、理事長にあたる「舎長」に政財界の重鎮が就いていたことは外せません。

 第3代舎長は「日本資本主義の父」と呼ばれ、2021年大河ドラマ「青天を衝(つ)け」の主人公である渋沢栄一が務めています。創立者の三島と交流があり、漢文や論語を軸とした教育理念への理解があったことから実現しました。

渋沢栄一(画像:東京ガス)

 戦後の日本政治の中心人物だった吉田茂は第5代舎長に。しかし政財界の大物とつながりを持つものの、教育現場に介入することはありませんでした。

 それぞれの重鎮であっても運営に口を出さない姿勢を貫いたのは、漢学を中心とした伝統ある教育機関に対する尊敬が大きかったからと推測されます。

著名文人も漢文を習いに門をたたいた歴史を持つ

 また舎長だけでなく、さまざま人物が二松学舎大学に関わっています。それは思想家や小説家といった文人の中にも。

 フランスの哲学者・ルソーの著作物を翻訳した中江兆民は、設立間もない1880(明治13)年に二松学舎の門をたたき、漢文を学びました。フランス語にたけ、「東洋のルソー」と称された兆民が漢文作法の習得のため通っていたことは、実に興味深い事実です。

 明治の文豪である夏目漱石も、漢文を学ぶため入学。二松学舎大学では創立140年記念に「アンドロイド漱石」を作成し、講義を行うという画期的なプロジェクトを実施。メディアにも取り上げられて反響を呼びました。

 明治後半には女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてうも、漢文を習いに足を運びました。

平塚らいてう(画像:新評論社、国立国会図書館)



 らいてうが他に学んだ高等教育機関は日本女子大学と津田塾大学の前身である女子英学塾ということを考えると、二松学舎大学はいかに早い段階から女子を受け入れていたことが分かります。

 早い段階から漢文塾として確固たる地位を築いていた二松学舎大学ですが、取り巻く環境は戦後に激変します。

戦後の欧米傾斜の風潮と距離を置く教育理念

 このように伝統のある二松学舎大学ですが、現在の知名度は決して高いとは言えません。

 なぜ、歴史ある私立大学でありながら早稲田大学・慶応義塾大学やMARCH(明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)のような知名度を持っていないのでしょうか。それは、教育に対する価値観が戦後に急変したからだと考えられます。

2019年度の業種別就職状況(画像:二松学舎大学)



 戦後の日本では欧米に「追いつけ、追い越せ」という考えが広く浸透し、大学などの高等教育機関では社会に出てから役に立つ英語や、西洋思想を学ぼうとする若者が急増します。

 そして、受験生の要望や時代の変化に応えるような学部学科が大学に新設・増設されていきました。

 大学進学率の上昇や拡大路線に走る大学が増えるなか、二松学舎大学は創立当初からの理念を貫き、世間の風潮とは距離を置く大学運営をこれまで行ってきました。

 そのため、平成に入って国際政治経済学部が新設されたものの、戦後復興期から現在に至るまで長年続いた欧米傾斜の風潮に乗り遅れたことは否めません。

今求められる国語力のある学生

 しかし、国語力を重要視する二松学舎大学の長年の考えは、若者の日本語力低下が危惧される今、もっと評価されるべきでしょう。

二松学舎大学のウェブサイト(画像:二松学舎大学)

 平成の30年間で文学部再編、または消滅した大学は国公私立問わず少なくありません。

 建学以来、国文学科や中国文学科を維持している二松学舎大学の変わらぬ姿勢は、現在の日本の大学界でまれな存在と言えるでしょう。

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