本社移転から約25年 フジテレビはかつて新宿にあったのをご存じか
かつて昼も夜も多くの人でにぎわった街 新宿の繁華街から徒歩20分ほどの場所にある都営新宿線「曙橋駅」。駅周辺は新宿区のなかでも静かな住宅地が広がるエリアです。そんな同エリアですが、かつては屈指のにぎわいを見せていました。なぜなら、フジテレビがあったからです。 あけぼのばし商店街にある「旧フジテレビ 案内碑」(画像:(C)Google) フジテレビが曙橋駅近くの河田町にやってきたのは、1959(昭和34)年のことです。東京タワーへのアクセスがよかったことから、尾張徳川家屋敷跡に建てられたホテル「河田町会館」の広大な敷地を購入したのです。 現在のスーパーマーケット「三徳 河田店」の近くには「凱旋(がいせん)門」と呼ばれる正門があり、番宣ポスターが掲げられていました。 また、階段となっている念仏坂を下りて曙橋駅方面へとつながる道路沿いには、「フジテレビ通り商店街」と呼ばれるにぎやかな商店街も。 フジテレビの周辺には関連企業が次々と事務所を開き、昼も夜も多くの人でにぎわうようになります。 そうした人たちを目当てに居酒屋やラーメン屋も増え、街は独特のにぎわいを見せるようになりました。とりわけにぎわうのは深夜帯。テレビ局関係者が集まってラーメンをすすっている姿は、この街の日常風景でした。 持ち上がった移転計画持ち上がった移転計画 ところが1980年代になりフジテレビが、独特のエンターテインメント番組によって事業を拡大していくにつれて、河田町の施設は次第に手狭になっていきます。こうして、持ち上がったのが移転計画でした。 フジテレビ本社があった新宿区河田町(画像:(C)Google) 当初は、河田町の建物を建て直す案もありましたが、敷地の狭さが問題になりました。そこに持ち込まれたのが、東京都によるお台場の土地の貸与です。 鈴木俊一氏が都知事だった1991(平成3)年、東京都では臨海副都心の都有地の貸与をすすめていました。臨海副都心は21世紀に超一等地となると期待されており、そんな土地への進出を希望する企業も多く、都の募集には大手企業394社が単独あるいはグループで77件の開発プランを提示していました。 そのなかでフジ・サンケイグループは、競争率11倍といわれた「F区画」を見事に射止めます。これが、現在のフジテレビの場所です(その後2018年に都から土地を購入)。こうして、お台場への移転が決まり新社屋の建設も始まりました。 これに驚いたのが商店街です。なにしろ、商店街は売り上げの7割以上をフジテレビに依存していると言われていたからです。フジテレビ通りは1日に1万人が歩いているといわれていましたから、それも当然。 そんなにぎわいがなくなってしまうとすれば死活問題です。1997年になると4月1日の正式な新社屋移転に向けて、フジテレビでは引っ越しが本格化します。それに連れて、商店街の売り上げも激減していきました。 しかし、フジテレビ側も長らく親しんできた地域への気配りも忘れてはいませんでした。この年の1月には周辺の商店街や町内会関係者を新築の本社に招待し、懇親会を開いています(『週刊文春』1997年3月6日号)。 長らくお世話になった商店街への気配りとして行われたのが、アーチの解体です。フジテレビが移転したことで、長らく商店街に掲げられていた「フジテレビ通り」のアーチは取り外され、現在の「あけぼのばし通り」のアーチが掲げられました。 爆破されたアーチ、復活した商店街爆破されたアーチ、復活した商店街 ちなみに、このとき取り外されたアーチは同年11月2日に放送された『西村雅彦のさよなら20世紀』(フジテレビ系)で爆破されました。商店街の象徴を爆破するというとんでもない企画に付き合う商店街もノリがいいですが、とにかく商店街は新しい時代に入ったわけです。 「あけぼのばし通り」のアーチ(画像:(C)Google) 旧フジテレビ社屋の解体はすぐに始まり、2003(平成15)年には総戸数816戸、地上41階建ての1号棟を中心とする「河田町コンフォガーデン(現・河田町ガーデン)」が建設されます。このタワーマンション群の登場によって、フジテレビの移転で先行きが危惧された商店街は、次第に息を吹き返します。 ただ、そうした流れに乗れたのは客層の変化をとらえて商売替えをした商店だけでした。2000年代後半まで、まだ周囲にはフジテレビ時代そのままの商売をしている飲食店もありました。そうした店も、時代の変化とともに姿を消していきました。 今では静かな住宅地になった河田町一帯。それでも商店街にはフジテレビの名が刻まれた案内碑が残り、往時を伝えています。
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