新宿から有楽町まであちこちに点在
よっぽど、東京が大好きなのでしょうか?
山口県の周南市は2003(平成15)年に徳山市・新南陽市・熊毛町・鹿野町の2市2町が新設合併し発足した街です。このうち旧徳山市は、興味深い地名がたくさんある土地として知られてます。
なんと、
・銀座
・有楽町
・代々木通
・新宿通
・原宿町
・青山町
など、街のあちこちに東京と同じ地名があるのです。
銀座と有楽町はJR徳山駅前の繁華街、その西側には代々木通と新宿通に原宿町、その隣は青山町となっています。
さらに海に突き出た工場地帯には晴海町という名前がありますし、晴海埠頭(ふとう)という埠頭もあるのです。おまけに代々木通には、代々木公園まで存在します。
同じ地名は、東京だけではありません。那智町に速玉町、新宮町と、なぜか和歌山県の地名まであります。
背景にある太平洋戦争の悲劇
徳山市は戦前から日本海軍の燃料廠(しょう)が置かれ、戦後もコンビナートで発展してきた街です。中心駅である徳山駅は新幹線の停車駅で、決して小さな街ではありません。
そうした街が東京の地名であふれているのは、いったいどのような事情があるのでしょうか。
これには戦後、焼け跡から復興した徳山市の歴史が関係しているようです。
太平洋戦争末期の1945(昭和20)年、徳山市は二度にわたって大規模な空襲を受けます。5月10日、豊後水道から侵入したB29約80機によって第三海軍燃料廠、大浦油槽所(ゆそうじょ)、徳山鉄板工場などの工場は壊滅し、死者500人を超える大きな被害を受けます。
被害はこれだけでは終わりませんでした。7月26日の23時頃、今度は100機にのぼるB29による空襲を受け、徳山市の市街地の9割近くが焼失してしまいます。
安易に命名したわけではなかった
壊滅した徳山市の復興が始まったのは、1947(昭和22)年に入ってからでした。この復興事業は、都市の区画整理からはじまる大規模なものでした。
1952年に「町名地番整理委員会」が発足し、区画整理が終わった地域から町名を順次付けていくことに。東京そのまんまのような町名は、このときに付けられたようです。
ただ「徳山市史」には「新興徳山にふさわしい新町名、地番に変わった」とあるだけで、そうなった理由は判然としていません。手がかりになるのは、この事業が行われた1952年から1961年まで3期にわたり市長を務めた黒神直久氏の証言です。
1985(昭和60)年に発行された『徳山の思い出―画文集』(マツノ書店)という本によれば「新宿、原宿、代々木などというと、安易に東京の地名をもってきたと思っている人も多いが、決してそうではない」とあります。
区画整理後の町名を管理した「町名地番整理委員会」が勝手に町名を付けたわけではなく、新たな町名は町内ごとに検討されて付けられたものだったのです。
地名は偶然の産物?
しかし区画整理が大規模だったため、各町内で新たな町名を付ける際、住民全員が納得するのは容易ではありませんでした。
戦前の町が分離されたり、合併されたりして新しい町になっているため、戦前の名前をそのまま使おうとすると、どの町名を使うかでトラブルが当然起きます。そこで、新たな地名を作ることにした結果、偶然にも東京によく似た名前ができた――というわけです。
黒神氏の証言によれば、新宿や原宿はあくまで「偶然」。もともと今宿という広い地域があり、それを分割するにあたって生まれたといいます。もとの今宿という地名から「宿」の字をもらって、新宿通と原宿町と名付けたというのです。
浮かび上がるさまざまな臆測
銀座は、また別の事情があります。この場所はもともと佐渡町と幸町というふたつの町があったため、合併するにあたり両方から一字を取り「佐幸町」とする予定でした。
ところが、幸町側の住人から「なぜ、うちの町が下なのか」とクレームが出たこともあり、東京の銀座の地名を借りてきたといういきさつがあります。
前述の『徳山の思い出―画文集』では「安易に東京の地名をもってきた」ことを否定していましたが、実際のところはもめ事を避けるために、東京にあやかって付けられたこともあったようです。しかし、今となっては真実はわかりません。
ただ戦前から工業地帯として栄えた徳山は、東京との行き来も元来多く、住人は進学も就職も東京志向が強かったと言われています。
そこで新町名を付けるにあたり、抽象的な名前よりも、東京にあやかった町名にして復興につなげようという意志が多少は働いたのではないかと想像できます。
筆者はそこに、戦後の困難の中、必死で努力した先人たちの熱気を感じるのです。