都市対抗野球 昭和初期の伝説「久慈次郎」がプロ入りを辞退したワケ

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都市対抗野球 昭和初期の伝説「久慈次郎」がプロ入りを辞退したワケ

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合田一道

ノンフィクション作家

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都市対抗野球の敢闘選手に贈られる「久慈賞」。この賞の設立には、野球に生き、野球に倒れたひとりの男の人生がありました。ノンフィクション作家の合田一道さんが歴史をたどります。

久慈賞のいわれ、ご存じですか

 社会人野球の「都市対抗野球大会(以下、都市対抗野球)」の敢闘選手に贈られる「久慈賞」。でも、そのいわれを知っている人は意外に少ないようです。

 久慈次郎はわが国にプロ野球が誕生するとき、大日本東京野球倶楽部(くらぶ。現・読売ジャイアンツ)の主将・捕手として入団が決まっていたにもかかわらず、自ら断り、社会人野球の函館太洋(オーシャン)倶楽部の監督兼捕手として活躍した人です。

都市対抗野球の会場となる東京ドーム(画像:写真AC)



 なぜ久慈はプロ野球入りを辞退したのでしょう。原因は北海道・函館を襲った大火でした。

函館を焼き尽くす1934年の大火

 1934(昭和9)年3月21日夕方、民家から出火した火災は風にあおられて燃え広がり、翌朝まで延々燃え続け、函館の街の半分を焼き尽くしたのです。

 焼失戸数2万4000戸余り、死者2256人にのぼりました。

 折しも同年晩秋に開かれる日米野球試合に向けて、全日本軍メンバーの選考が進んでおり、久慈は主将兼捕手として、投手は若林忠志、沢村栄治、スタルヒンら、内野手は山下実、三原脩(おさむ)、水原茂ら、外野手は中島治康、二出川延明らを選び、布陣を整えていました。

都市対抗野球を盛り立てた久慈次郎(画像:合田一道)

 久慈はこのとき、主催者の読売新聞社に対し、火災で疲弊している函館市民を励ますため、日米野球の1試合を函館で開催してほしい、と願い出たのです。

観客に愛された「ヒゲのおやじ」

 主催者はこれを聞き入れ、11月8日、小雪が舞う中、試合が行われました。5対2で敗れましたが、函館市民といわず北海道民は久慈の厚意に感激し、喜び合ったといいます。

 明けて1935(昭和10)年春、プロ野球が誕生しますが、大日本東京倶楽部に入団することになっていた久慈は、取り消しの便りを書き、替わりに函館太洋の永沢富士雄一塁手を送り込みました。

 久慈は、大火で疲弊した函館を見放すことができなかったのです。

 以後も久慈は、函館太洋の監督兼任として毎年、常連のように北海道代表として全国大会に出場しました。だがいつも初戦で敗退するので「1回戦ボーイ」とあだ名されるほど。

 しかし八の字ヒゲを生やしてプレーする久慈は人気者で、破れて立ち去る姿に「ヒゲおやじ、また来いよ」と温かい拍手が送られました。

 1939(昭和14)年、久慈は数え年42歳の厄年を迎えました。

久慈が「最後の試合」に臨んだ札幌神社外苑球場。現・札幌市円山球場(画像:(C)Google)



 その年の2月、函館に近い横津岳のスキー大会の滑走競技に出場した久慈は、転倒して右足を捻挫します。でも本人は「これで厄落としができた」と笑っていたそうです。

 この夏、函館太洋は都市対抗野球の1回戦で初めて勝利しました。

「ついに勝ったぞ」と、久慈はナインらと祝杯を挙げました。

 帰郷してすぐの8月19日、小樽新聞社主催の北海道樺太実業団野球大会が札幌神社外苑(がいえん)球場で開かれ、1回戦で函館太洋は札幌倶楽部と対戦しました。

七回表、運命の1球は投げられた

 試合は2対1で札幌のリード。ベンチにいた久慈は途中から一塁手として出場しました。

 七回表無死走者一塁、打者は久慈。一発逆転の好機です。

 札幌倶楽部は敬遠の四球。久慈はバットを捨てて一塁へ歩きかけようとして立ち止まり、振り返って次打者に声をかけようとしたとき、事故は起こりました。

 捕手が二塁走者へけん制しようとして投げた球が、久慈の右こめかみを直撃したのです。久慈はそのまま倒れ込みました。

 試合は中断、コールドゲームに。久慈は病院に運ばれましたが、こめかみ部分の骨が三つに割れる重傷で、すぐに手術が施されました。両軍選手も駆けつけ、輸血をしました。

 翌日も手術が続行されましたが、意識は戻らないまま8月21日朝、亡くなりました。

 送球による死というので、札幌警察署が相手捕手から事情聴取をする騒ぎになりました。北海タイムスはこう報道しています。

函館市内にある久慈次郎の像(画像:合田一道)



「今回の不慮災ひに見舞はれ、氏が持論である『野球に始まって野球に死す、邪道は許さず』の本望を達し、球道に野球の神様久慈は倒れた。その死は本道(北海道)球界のみならず全国球界から痛く惜しまれる」

 遺体は特別列車で函館に運ばれ、寺院へ向かう葬列が駅前を出発しました。沿道には久慈の死を悼む人々が詰めかけ、悲しみに暮れました。

都市対抗野球に流れる熱き血潮

 歳月を経て現在は、試合をするとき、打者はヘルメットが義務づけられていますし、四球も「申告敬遠」まで登場する時代ですから、久慈選手のような事故はもう想定されないでしょう。

 それだけに、思い出すたびに無念さが募るのです。

 函館・称名寺の墓所に久慈の墓が建っています。

 ボール型をした丸い墓で、墓前にホームベース形の石板、両側にバットの形の花立て、骨入れはミットの形です。妻カヨが夫をしのんで立てたものです。

 身ごもっていた妻は、やがて生まれた男児に夫と同じ「次郎」と名づけました。そんな歴を知ると、都市対抗野球に流れる熱いものを感じます。

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