大阪万博を夢見て
先日、東京五輪の開催が2021年に延期となりました。そのため、このビッグイベントにあわせて開発を進めていた施設は動揺を隠せないように見えます。
でも、心配することはありません。なぜなら、東京の臨海エリアには「もう未来がない」と言われた状態から見事復活を果たしたエリアがあるのですから。そう、今や知らない人がいないエリア・お台場です。
1995(平成7)年5月、お台場には考えもしなかった悲劇が起こりました。それは、1996年3月から開催が予定されていた「世界都市博覧会」の中止です。
もともとこの計画は、当時の鈴木俊一都知事が首都圏で開催できなかった「日本万国博覧会」(大阪万博。1970年)のような催しを夢見て1993年、提案したものです。
この計画には1981(昭和56)年の「神戸ポートアイランド博覧会」のように、臨海エリアの開発推進の起爆剤にしたいという意図がありました。そのためバブル景気が冷え込み、臨海エリアの不動産需要が低下しても計画は止まりませんでした。
青島都知事の誕生で変わった風向き
こうしたなか、1995年4月の都知事選で都市博中止を公約に掲げた青島幸男が当選します。
170万票を獲得した青島都知事が公約に掲げているとはいえ、「中止はあり得ないのではないか」というのが当時の下馬評でした。
なぜなら翌年の開催に向けて工事はすでに始まっており、膨大な数の関連企業の間で受発注の契約が交わされていたからです。たとえ中止しても、開催して十分な来場者を確保できなくても、どちらも膨大な損害が生じることに変わりはありませんでした。
なにより前売り券がすでに販売され始めていたこともあり、都議会では圧倒的多数で開催を求める決議が可決します。
しかし決断のタイムリミットとされた1995年5月31日、青島都知事は開催中止を発表します。
結果として都政の混乱は長く尾を引くことになるのですが、残った問題は都市博の会場と周辺の開発予定地でした。同年11月には、ゆりかもめが新橋~有明駅間に開業をしていましたが乗客は少なく、「空気を運んでいる」と揶揄(やゆ)される状況だったのです。
ターニングポイントは1996年
ところが、1996年になってこの状況が一変します。
2月に東京国際展示場(東京ビッグサイト。江東区有明)と東京ファッションタウンが開業。都市博が中止され、何もない埋め立て地と言われていた場所に商業施設が誕生したことで、お台場は一躍注目を集めます。
そのインパクトはめざましく、「一度は行ってみよう」と考える人が急増しました。さらに7月になりアミューズメント施設・東京ジョイポリス(港区台場)ができると、その人気は決定づけられました。
夏休みに入ると、ゆりかもめは乗車だけで1時間待ち。東京ジョイポリスは2時間待ち。ファストフードを買って食べようと思っても、また行列という人気スポットに変貌したのです。
1996年の夏、お台場を訪れた観光客は東京ディズニーランドを上回ったとして、大きく注目を集めました。
急増した修学旅行客
そして1997(平成9)年3月、鳴り物入りでフジテレビ(港区台場)がお台場に移転してきます。ここに都市博の「負の記憶」は一掃され、にぎわう観光地としてのお台場が完成したのです。
フジテレビの移転で、まず増えたのが修学旅行客です。
それまでの修学旅行の定番だった国会議事堂や浅草と並んで、お台場の名が上がるようになりました。1997年4月には、25人以上の学生割引の利用件数が前年同月の3倍となる912件(『読売新聞』1997年5月7日付夕刊)にまで急増しました。
修学旅行だけでも、これだけ増えているのですから、東京にやってくる人たちにとってお台場がいかに憧れのエリアだったかがよくわかります。
街は必ず育つ
こうして観光地として脚光を浴びた臨海エリアは、それまで滞りがちだったビル建設が復活。青海や有明方面へと広がっていくことになるのです。そして2020年の現在、お台場はもちろんのこと、有明も著しく変貌しています。
東京ビッグサイトのオープン当初は、周囲は空き地ばかり。中には舗装すらされていないエリアも多かったのが、いまやホテルやオフィスビルも並ぶ新たな都心となっているのです。
たとえ当初のもくろみがうまくいかなくても、人が足を運びたくなるような開発を実施すれば、街は必ず育つのです。停滞気味な今の東京において、皆さんもあえて「プラス思考」で将来を考えてみませんか。