ベランダから木に飛び移って……
猫が脱走してしまった――。
胃がキュッとなるような連絡が来たのは、梅雨の終わりのことでした。
猫の不妊去勢手術を進めていたり、交通事故にあった子を保護したり、子猫の里親募集をしたり。いわゆる地域猫活動を続けている方から「里親さんに譲渡したばかりの猫が逃げてしまったらしいの」と、電話がきました。
団体として猫の保護譲渡活動をしている私(山本葉子。東京キャットガーディアン代表)たち。かたや個人の活動家さんたちは何もかも全部ひとりで行うので本当に大変です。
それでも、新しいお家に猫たちが迎えてもらったり、餌やりのトラブルが起きている現場の問題解決ができたりすると、やっててよかったとコーヒーなどでささやかな祝杯をあげるのです。そんな彼女が譲渡したばかりの猫は、1歳半の元気な元・地域猫でした。
とにかく猫が逃げてしまったお宅に連絡して、一緒に伺います。里親さんは「すみません!」と言ったきり青ざめて固まっています。順を追って状況を聞いていくことにしました。
「猫の脱走に気がついたのはいつですか?」
「洗濯物を干そうとしてベランダのあるそこのドアを開けました。その前にあの子が隣の部屋にいることは確認していたんですが、脱水した洗濯物を取りに行ってベランダに出てようとしたら、あの子のいた部屋のドアが細く開いていて……閉まっていたはずなのに」
時間にして、1~2分の間かと思われました。
近所にたくさん捕獲器を仕掛けて
現場はマンションの5階、しゃれたベランダの向こうには、逃走にうってつけのイチョウの大木が見えます。大人の猫なら飛び移れる距離です。
お家の子になってまだ数日、そしてあまり人なれしていない猫だったとのことです。でも短期間でも一緒に暮らした子がどこかで迷子になっているという状況は、途方もなく辛いことです。
心配のあまりパニックを起こしている里親さんに、用意してきた紅茶とクッキーをどうにか食べてもらって「絶対近くにいますから頑張りましょう」と捜索手順について話します。炭水化物や甘いものは、こういうときの精神安定剤になります。
どこに逃げたのかはわかりませんが、いろんな状況を想定してまずは持ってきた捕獲器を近隣に設置することから始めました。
このマンションで暮らし始めて、まだ数か月しかたっていない里親さん。長い間猫との暮らしに憧れて「2頭までならOK」のペット共生住宅を選んでお引っ越ししてきました。近隣のお知り合いはまだいないとのことです。
マンションの敷地内・お隣の家の庭先・裏手のガレージ。室内から屋外に出た猫は、だいたい手近な遮蔽(しゃへい)物の下に潜り込みます。潜んでいそうな場所に捕獲器を設置するのに、ご近所にお願いに行きました。
マンションの管理人さん。
「敷地内に猫がいる可能性があるので、餌と捕獲器を置かせてください」
「うーん、管理会社に聞いてくれますか? 僕はそういうのわからないので」
お庭のあるお隣の家。
「すみません、猫が逃げてしまって」
「大変! ウチも飼ってるの。見かけたらすぐ知らせますね。写真ある?」
裏手のガレージの大家さん。
「捕獲器を置かせていただけないでしょうか?」
「ねこぉ? 苦手なんだよね」
「お手間はかけないようにしますので、ぜひ」
こんな感じで次々と。
約1か月間の脱走劇、意外な結末
パニック状態だった里親さんは、だんだん落ち着いてきてコツもつかんできたようで、かなり積極的に声かけをして回ってその日は終了しました。
「また明日! きっと見つかります、頑張りましょう」
お約束をして翌日も、その翌日も捕獲器を設置したり、置き餌を見回ったり、目撃情報を探してビラを配ったりしました。なかなか見つかりません。目撃情報もなし。1週間が過ぎたあたりで里親さんが「自分で探しますので」と言い、そのあとは定期的に報告をいただくことになりました。
猫の脱走から約1か月。仕掛けた捕獲器には他の外猫さんたちが入れ替わり立ち替わりかかってしまい、避妊・去勢手術が済んでいない子は済ませて、またリリースする日々が続いていました。
「うちの子が帰ってきました!」
里親さんから大きな声で電話がかかってきました。ベランダで動くものがチラッと見えて、出てみるととても痩せた姿で猫がうずくまっていたそうです。
今すごい勢いでご飯を食べていますとうれしそうなお話でしたが、飢餓状態の胃に大量の食物が入るのは危険なので「何回かに分けてあげましょう。ゆっくり進めたほうがいいです」と止めました。
戻って来られて本当に良かった。でも、どうしてベランダで発見されたのでしょう? 大木を伝ってマンションの下へ脱走したのではなかったのでしょうか?
そして、猫は甘えることを覚えた
数日たって理由がわかりました。
同じ階の3軒隣の住人も猫を飼っているそうなのですが、彼女はベランダでおうちの猫にご飯をあげていたそうです。毎日の習慣。いつものご飯。でも、お皿はキレイに空になるのに飼い猫はなんだか痩せていきます。不思議に思いながら量を増やしたり高栄養のフードを混ぜたり。
実は里親さん宅から逃走した猫は、ベランダ伝いに3軒隣のおうちのベランダに逃げ込んでいて、そこの猫のご飯を食べていたらしいのです。じゅうぶんな量ではもちろんなかったのでしょう。泣きながら体を拭いてあげている里親さんの「こんなに痩せて、ごめんねごめんね」という小さい声が聞こえます。
マンションの外に逃げてしまったとばかり思って捜索していましたが、こんなに近くにいたとは。
まだ人なれが進んでいなかったその猫は、戻ってきてからは大甘たれのゴロゴロになりました。
里親さんはその後もときどき状況を知らせてくれますが、必死に猫を探している間に知り合いになった人たち、思いもよらず助けてくれた人たち、取り合ってくれなかったペット共生マンションの対応など、いろいろ考えることがあったそうです。
捜索が長期間続いたにも関わらず、里親さんが諦めず必死に頑張ってくださって本当に良かったです。この部屋で猫も人も長く暮らしていけますように。