【実録 東京人vs関西人 2】誇り高き「上方」が政治も経済も東京に屈服した日
2020年6月28日
知る!TOKYO江戸・東京と、関西・関西人との結びつきを考える、ジェイ・エム・アール生活総合研究所社長の松田久一さんの連載(全4回)。2回目は、政治や経済の中心が関西から東京へと移り変わった歴史を振り返ります。
大阪との役割分担で成長した江戸システム
兵庫県出身の筆者(松田久一。ジェイ・エム・アール生活総合研究所代表取締役社長)が江戸・東京と関西の結びつきについて考える4回続きの連載。第2回となる本稿では、政治や経済の中心が関西から東京へと移り変わった歴史をたどっていきたいと思います。
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江戸時代の江戸と「上方」(現在の関西地域)との関係で、忘れてはならないのは経済的な結びつきです。

江戸は100万人都市でした。当時、世界最大と推定されています。人口構成は武士と町人が半々です。コメなどの生産はしません。従って、各藩の農民は年貢を納めて藩主に安堵(あんど)してもらい、藩主は年貢米を家臣に配分し、家臣は藩主に忠誠を誓う土地にもとづく封建制度をとっていました。
実際は、年貢米を大阪で売って、小判などの対価を得て、藩は貨幣で受け取り、配分していたようです。
米の値段で収入が変わりますから「米本位制」でした。大阪で売った米の対価は、藩に送金すると同時に、江戸の藩邸にも送金されました。江戸の武士はこうして得た貨幣で、米などの食料から刀などの商品まで幅広く購入していました。
銀座は、両替商である金融機能の名残の地名です。お金は電信為替のように、大阪から江戸に飛脚によって数日内で届けられたようです。大阪で両替商に振り込んだお金を書面確認で江戸の両替商で受け取れました。
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