町田と八王子の境界近くに存在 蛇行を繰り返す「戦車道路」とは何か

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町田と八王子の境界近くに存在 蛇行を繰り返す「戦車道路」とは何か

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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八王子と町田市の境界付近にある通称「戦車道路」。この道路の歴史について、地形散歩ライターの内田宗治さんが解説します。

八王子と町田市の境界にある散策コース

 八王子と町田市の境界付近に、「戦車道路」と書かれた案内板の立つ散策コースがあります。太平洋戦争中、陸軍が戦車の性能テストや操縦訓練をした道だったので、こう呼ばれています。

地理院地図より。小山内裏公園付近で尾根伝いに戦車道路が激しく蛇行している(画像:内田宗治)



 特に京王相模原線「多摩境駅」(町田市小山ヶ丘)付近、下を線路がトンネルでくぐっている前後では、戦車道路の道が激しい蛇行を繰り返しています。

 Wの文字の隣にVの字をくっつけた形で、わずか1.5kmの間に5回もUターンに近い形で屈曲しています。悪路の戦場でも戦車が活動できるように、わざと蛇行させたテストコースを造ったとも言われてきました。

「戦車道路」の由来とは

 この戦車道路は、低い山の尾根伝いに約8km続きます。かつて戦車が乾いた道で、ほこりを巻き上げたり、ぬかるんだ道では泥を跳ね上げたりしながら進んだ道が、現在は尾根緑道と名付けられた緑道に整備され、絶好の散策&サイクリングコースになっています。

 尾根緑道の南側は低地が広がっているので、コース途上には見晴らしがいいポイントが点在しているのもうれしい点です。

小山内裏公園内の通称「戦車道路」の尾根緑道。2020年6月撮影(画像:内田宗治)

 戦車道路の由来を見ておきましょう。

 太平洋戦争開戦1年前にあたる1940(昭和15)年、現在の相模原市(神奈川県)北部、町田市との境界付近に相模陸軍造兵廠(ぞうへいしょう。旧日本陸軍の兵器工場)が設置されます。

 場所は現在JR横浜線相模原~矢部間の線路沿いから北側にかけて広がる米陸軍相模総合補給廠になっている所です。

 相模陸軍造兵廠では、戦車(チハ車)や装軌牽引車(ロケ車)を最大で月産15台程度製造したほか、中口径砲弾弾帯(弾帯 = 弾丸に回転を与えるため弾丸の底部にはめ合わせた金属製の帯)の搾出などを行っていました。徴用工、動員学生も含めた工員数は、戦時中の1943(昭和18)年には約1万1300人にものぼっています。

道路の完成は1943年

 製造した戦車は、性能テストをしなければなりません。また造兵廠の東南側に隣接して陸軍兵器学校があり、その学生たちの操縦訓練の場も必要でした。

 造兵廠敷地のすぐ前を、前述のとおり1908(明治41)年開業の国鉄横浜線(開業時は私鉄の横浜鉄道、現・JR横浜線)が走っています。同線の相模原駅は造兵廠完成後、西門近くに1941(昭和16)年に開業したものです。

 それまで線路沿いに続く平地は一面の桑畑だったのが、造兵廠で働く人たちなどの宅地や商業地になっていきます。一方、造兵廠の北側は都県境となる境川が流れ、そのすぐ北側(現・町田市側)は低い山間地のためほとんど未開発状態でした。

1925(大正14)年発行の地図。相模陸軍造兵廠が作られる前の様子(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)



 陸軍がこの山間地の土地を買収して、1943年に戦車道路を完成させます。造兵廠の北側の門を出て坂道を1.2kmほど登れば戦車道路に出会える立地で、戦車道路コースすべてが尾根筋を通っています。

 なぜ尾根伝いのコースにしたのかは想像になりますが、

・上から見下ろされることがないので秘密を守りやすいこと
・平地ではないのでアップダウンが適度にありテストコースに適していること
・尾根筋なら横切る川がなく橋を建設する必要がないこと
・山間地で人家が少ないこと

などが考えられます。

 またそもそも一般に山道は尾根筋に造られることが多く、戦車道路の中でも元から細い山道としてあった区間もあります。

地形をよく見ると……

 ところで激しい屈曲が続く区間は、現在小山内裏(おやまだいり)公園(町田市小山ヶ丘)となっています。多摩境駅から歩いて10分もかからず行きやすいのですが、低いながら山道を登る必要はあります。

戦車道路から遠くに米陸軍相模総合補給廠が見える。かつてはここで日本軍の手で戦車が製造された。2018年6月(画像:内田宗治)

 ここの地形をよく見ると興味深いことに気づきます。もともと尾根筋自体が屈曲を繰り返しているのです。

 ということは、この部分わざと蛇行するようにコース設計したのではなく、地形に制約されながら尾根伝いに道を計画したら、偶然激しく蛇行する道になってしまったとも考えられます。

 または偶然蛇行が続く尾根があるから、そこをテストコースに組み入れたという可能性もあります。

千葉県にも似た例が

 同じような例は、千葉県の新京成電鉄にも見られます。

 同路線の多くは戦前に陸軍鉄道連隊の演習用として建設されました。新津田沼駅付近や習志野駅付近など、不自然にカーブが多いのは、鉄道敷設訓練のためにそのように造られたと言われてきました。

 ですが地形をよく見ると、京成津田沼~新津田沼間はS字上に続く尾根筋を線路が進んでいますし、習志野駅付近では谷筋にぶつからないように、台地上を適宜カーブしながら進んでいます。訓練のためカーブを設定する必要もあったようですが、地形もそれに味方していたわけです。

京成津田沼~新津田沼間の地形の様子(画像:(C)Google)



 戦車道路では戦後しばらくも、防衛庁(当時)技術研究本部第4研究所が年に数回、戦車の走行テストをしていました。その後、多摩ニュータウン建設のため土砂運搬道路として舗装され、1980年代半ばから緑道として整備されていきました。

 現在かつての戦車道路をのんびりと散策したり、ジョギングやサイクリングをしたりと、それぞれ皆思い思いに利用しています。それは平和の尊さも感じさせてくれます。

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