御茶ノ水駅から数分 日本最古の高架橋が魅せる「至高の4連アーチ」を知っていますか
都市景観を形成する大きな要素 世界に誇るわが国の鉄道網。中でも東京圏の鉄道路線は総延長2700㎞におよび、毎日多くの人々の足となっています。 人家や商店が密集していた都内中心部には、鉄道黎明(れいめい)期から多くの高架線が建設されました。長く連なる赤レンガの高架橋と、青空を背景に走る汽車や電車は近代化のシンボルとなり、また都市景観を形成する大きな要素になっていきます。 高架線は道路と立体交差しますが、そこには架道橋が設けられました。道路をまたぐ鋼鉄の桁も、やはり当時の最新技術を導入して建設されたものです。 明治の後半から大正初期にかけてつくられたこれらの設備は、修復や拡張を繰り返しながら21世紀の今も現役です。電車の窓からはなかなか気づかない、100年前の産業遺産を散歩してみましょう。 日本最古の高架橋 JR中央線御茶ノ水~神田間、神田川と淡路坂の間を東西に走る紅梅河岸(こうばいがし)高架橋(千代田区神田淡路町)は、1908(明治41)年に完成しました。4連のアーチが美しい約40mの高架線です。ここは甲武鉄道が建設した日本最古の高架橋として知られています。 お茶の水~神田間の紅梅河岸高架橋。半円形のレンガアーチの下はレストランとして活用されている(画像:広岡祐) 甲武鉄道はお茶の水と八王子の両駅を結んだ民営鉄道で、のちに国有化されてJR中央線となります。 1904(明治37)年の開業後、御茶ノ水駅から万世橋駅までの延長工事が行われ、その間にあった紅梅河岸高架橋に昌平橋仮停車場のプラットホームが設けられました。昌平橋駅は万世橋駅が完成するまでの4年間、名古屋まで延びた中央本線の起点となったのでした。 バルコニーのような華やかな造形もバルコニーのような華やかな造形も 紅梅河岸高架橋の見どころは、何といってもその装飾の美しさです。 明治大正期に完成した橋やトンネルポータル(トンネルの入り口部分)などの土木構造物は、扁額(へんがく)や紋章、飾りレンガなど、さまざまな装飾がもうけられているものが多く見ごたえがあります。紅梅河岸高架橋の東端、昌平橋架道橋を支える橋台にあたる部分には、西洋建築の付け柱とバルコニーのような華やかな造形が見られます。 紅梅河岸高架橋の装飾。昌平橋駅ホームへの入り口はこの赤レンガの脇にあったという(画像:広岡祐) 紅梅河岸というエレガントな地名は、この地にあった紅梅の大樹から名づけられたようで、御茶ノ水・ニコライ堂(千代田区神田駿河台)の西側には紅梅坂という坂道も残っています。 神田駿河台に統合されるまで、周辺には東紅梅町、西紅梅町の町名があったそうです。 交通の要衝・万世橋 昌平橋架道橋に続いて建設されたのが、万世橋高架橋(同区神田須田町)。川沿いに連なる、100mにおよぶ連続アーチは圧巻です。この高架線の東側に万世橋駅がありました。 1932(昭和7)年発行のお茶の水周辺の地図。真ん中の駅に「まんせいばし」の表記がある(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕). 明治のはじめ、神田の岩本町から須田町にかけては古着商が集中し、のちに衣類問屋街として成長していくことになります。 また神田多町には、江戸時代から青物商が軒を連ねていました。 甲武鉄道の経営陣は、これら多くの商店でにぎわう神田の万世橋を起点としたのでした。駅前の須田町交差点は、最盛期には10系統の路面電車が複雑に行きかう、交通の要衝となりました。 焼失後も愛された万世橋駅舎跡焼失後も愛された万世橋駅舎跡 万世橋駅の設計者は、のちに東京駅を手がけた建築家・辰野金吾です。 赤レンガの壁面を、花こう岩の白い水平線で飾った意匠は「辰野式」とよばれるスタイルで、帝都のシンボルとなる名建築でした。駅につながる高架橋も、飾りレンガやコーナーストーン、メダリオンなど、さまざまな装飾がみられます。 市電の行きかう震災前の須田町交差点。後方に見える赤レンガ建築が万世橋駅(画像:広岡祐) この駅舎は1923(大正12)年9月の関東大震災で焼失、太平洋戦争中の1943(昭和18)年に駅自体が休止となります。駅舎跡には交通博物館がおかれ、戦後も長く東京の子どもたちに愛される施設になりました。 つながった東京の鉄路 東京市街高架線 1872(明治5)年に初めて開通した新橋~横浜間に続き、上野と埼玉の熊谷が鉄道で結ばれ、隅田川の東側には千葉方面に延びる総武鉄道が誕生します。甲武鉄道の万世橋とあわせて、東京から各方面に延びる鉄道網が整備されていきました。 これらのターミナル駅を結んだのが、東京市街高架線です。神田から新橋までの線路がつながったのは1914(大正3)年。この年に東京駅が完成し、起点だった新橋は高架上の通過駅となりました。 神田駅北側の黒門町橋高架橋。太平洋戦争末期の空襲でさく裂した爆弾の跡が残っている(画像:広岡祐) 有楽町~新橋間の完成は一足早い1910(明治43)年。浜松町近くの新銭座と、東京駅付近の永楽町を結んだことから「新永間市街線高架橋」と名づけられました。 近年は外国人観光客も注目 東京駅から新橋駅にかけての高架線は江戸城の外堀にほぼ沿っていますが、堀の西側に建設されています。 江戸切絵図を見ると、掘割の東は人家が密集する町人地、西は内堀との間に設けられた武家地です。明治以降に官有地になった武家地側に線路をひくことによって建設費をおさえるともに、人家の密集する下町に鉄道敷設を強行して反対運動が起きることを避けたのでした。 大正初期の京橋山下町付近。掘割は埋め立てられたが、高架の線路と山下橋架道橋は現在も当時のまま。高架橋の向こう側に見える白い洋館は初代帝国ホテル(画像:広岡祐) レンガ造りの高架橋にくわえて、埋め立てた外堀上には新たに東海道本線、新幹線の高架線も建設されました。 これらの高架下には数多くの飲食店、飲み屋が立ち並び、サラリーマンの憩いの場として、また近年は外国人観光客の人気を集めるスポットとしても発展しています。現在、高架橋の耐震補強工事が進み、新たな活用法も模索されているようです。 昌平橋から新橋までは約4㎞、じっくり眺め、そして手で触れられる貴重な明治の遺構です。外出自粛の日々が続きますが、コロナ禍が明けたらのんびりと散策してみましょう。
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