餃子の肉汁からジュワッとにじむ、戦後日本の復活スタミナ物語【連載】アタマで食べる東京フード(2)

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餃子の肉汁からジュワッとにじむ、戦後日本の復活スタミナ物語【連載】アタマで食べる東京フード(2)

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畑中三応子

食文化研究家・料理編集者

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味ではなく「情報」として、モノではなく「物語」として、ハラではなくアタマで食べる物として――そう、まるでファッションのように次々と消費される流行の食べ物「ファッションフード」。その言葉の提唱者である食文化研究家の畑中三応子さんが、東京ファッションフードが持つ、懐かしい味の今を巡ります。

餃子の元祖店は、渋谷にあった?

 地下鉄の赤坂駅、乃木坂駅、青山一丁目駅からそれぞれ歩いて10分ほど、地元仕様の小さな商店街の、そのまた細い路地に、昼時ともなると長い行列が出現します。

 行列の先にあるのが、「珉珉」。この中華料理店こそが、日本の餃子(ギョーザ)発祥の店の直系の子孫なのです。

「焼餃子」600円。ほかに水餃子、炒餃子(揚げ餃子)、炒醤餃子(肉みそのあんがけ)もある(画像:畑中三応子)



 今では国民食のひとつになった餃子ですが、それほど古い料理ではありません。

 大昔の中国料理のレシピ本を読むと、載ってはいます。しかし戦前までは、そもそも数が少なかった中国料理の店で、出しているところはほぼ皆無。人気があったのはシューマイで、注文しなくても出してくれて、食べただけ払えばいい店もあったそうです。

 餃子はもともと、中国東北部でよく食べられている点心(軽食)。戦争が終わり、満州から引き上げてきた人々が、現地で覚えた餃子を再現してみたのが始まりです。

 餃子元祖を名乗る店は全国にいくつかありますが、そのなかでもっとも有力視されているのが、渋谷「有楽」説。

 根拠は、食通で知られたコメディアン・古川緑波(ふるかわ ろっぱ)の『ロッパの悲食記』にある「戦後はじめて、東京に出来た店に、ギョーザ屋がある。(中略)僕の知っている範囲では、渋谷の有楽という、バラック建の小さな店が、一番早い」というくだりです。

 この有楽は、1948(昭和23)年に引き揚げ者の高橋道博さんが、百軒店(ひゃっけんだな)で始めました。中国では使わないニンニクを入れたのも、最初の人とされます。中国人は、餃子を食べながら生のニンニクをかじるので、そこからひらめいたのかもしれません。

渋谷109周辺は、かつて餃子店がひしめいた

 1952(昭和27)年に「恋文横丁」(現在「109」が立っている三角地帯、渋谷最大の闇市マーケットだった)に移り、中国人の妻の名前から1字とった「珉珉羊肉館(ヤンロウカン)」と改名。

 水餃子と焼餃子、ジンギスカンを出したところ、焼餃子が大評判をとり、押すな押すなの大盛況になりました。当時の週刊誌は「主食によし、副食によし酒のさかなによし、しかも安価」なのが、人気の理由と解説しています。

 すると、近所の店がいっせいに餃子屋へ商売替えし、路地が入り込んだ迷路に飲食店と古着屋、古道具屋がひしめいていた恋文横丁は、たちまち専門店が軒を連ねる餃子の聖地に。横丁に一歩足を踏み入れると、餃子の匂いが立ちこめるほどだったそうです。

 最初の頃は「餃」を「鮫」に読み間違えて、サメの子が食べられるのかと言われたり、形からかしわ餅に例えられたりしましたが、渋谷から東京全域に、そして全国へと急激に広がって、大きなブームになりました。

 当時は、たんぱく質と脂肪分が少ない日本人の食生活改善が強くうたわれていた時期。肉あり、脂あり、ニンニクとニラたっぷりで、いかにもスタミナがつきそうな餃子は風潮にぴったり合って、家庭料理に取り入れられるまで、それほど時間はかかりませんでした。

独特の雰囲気のある店構え。創業者の自宅を改築した(画像:畑中三応子)



 赤坂の珉珉は恋文横丁時代の珉珉羊肉店へ修業に入り、のちに店舗が大和田マーケット(現在の渋谷マークシティ側)に引っ越し、高橋さんが亡きあとまでチーフをつとめた清水秀夫さんが、独立開業。のれん分けのかたちで店名を受け継ぎました。

皮の中から、肉汁と野菜汁がジュワッ

 現在、各地に「珉珉」「ミンミン」と名のつく店がたくさんありますが、赤坂の珉珉は2000年代に閉店した元祖の正統な継承者として、餃子好きは一度は訪ねるべき店になっています。

 昼は行列、夜は予約必須で、1日に1000個は作る餃子が、飛ぶように客の腹におさまっていきます。40席くらいの店なのに、1000個とはすごい。手包みなので、休み時間にも従業員はフル稼働です。

 その珉珉の餃子はといえば、まず大きい! 手元に1955(昭和30)年のグラフ雑誌に載った餃子の写真がありますが、それも大きい。サイズは当時のままです。焼き面が特に大きく成形され、焼き色の美しさも極上です。

「レンゲにのせて食べて」と指示され、その通りにして一口かむと、パリリとした皮の内側から汁がほとばしり出ます。レンゲに受けた汁をすすってみれば、意外なあっさり感。

カウンター内では大勢が忙しく働き、活気に満ちている(画像:畑中三応子)



 聞けば、材料の野菜(白菜、ニラ、ネギ、ニンニク)は細かく刻んだあと、水気を絞らずに豚ひき肉とよくよく練り合わせて一体化させるそう。肉汁と思いきや、野菜のジュースの比率のほうが高いかもしれません。いったん冷凍して水分を閉じ込めてから焼くという手間をかけ、野菜の甘味と栄養分がそのまま生きた餃子です。

 もうひとつの特徴は、粗びき黒コショウをたくさん入れた酢で食べること。酢じょうゆより餃子の持ち味を引き立て、さっぱりと食べられる方法として、この店で編み出されました。大きくても一皿6個がするりと喉を通る、絶好の相性です。

日本の戦後史を体現する味わいの逸品

 餃子以外にもメニューは豊富で、個性のある中華の一品料理も多数並びます。清水さんは中華だけでなく和食や洋食もできた非常に腕のよい職人で、他界後は息子の浩さんと誠さんが、餃子も含め、味をさらに進化させてきました。そして何といっても、創業時から店を切り盛りしてきたおかみの和子さんが素晴らしい。

酢コショウで食べるのが赤坂珉珉の流儀。厚からず、薄からずの皮に肉と野菜が一体化したあんが詰まっている(画像:畑中三応子)



 和子さんは、港区・高輪育ちのちゃきちゃきの東京っ子。2020年で79歳になるのが信じがたいほど、くるくると機敏に働いています。的確な目配りと闊達(かったつ)なしゃべり、初めての客でも気後れさせない明るい包容力で店をまわす、客商売のお手本みたいな人。

 餃子は戦後復興とともに生まれ、高度経済成長期の働く日本人を支えたうまくて安いスタミナ食。和子さんは「全部変えていますよ」と、昔には執着しない様子です。が、たしかに珉珉の餃子には、元気をくれる味とボリュームがある。日本の戦後史を思い起こしながら食べると、いっそう味わい深い餃子です。

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