東京・三田の再開発で突如出現 建築家「丹下健三」の麗しき名作とは

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東京・三田の再開発で突如出現 建築家「丹下健三」の麗しき名作とは

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小川裕夫

フリーランスライター

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「世界のタンゲ」と呼ばれた丹下健三(2005年没)が都内に残した建築物について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

活発化する都内の再開発事業

 昨今、都心回帰が顕著になり、東京では再開発事業があちこちで活発化しています。事業終了後、それらのエリアには背の高いオフィスビルや住宅用マンションが立ち並ぶ未来図が示されています。

 日本全体で人口減少が加速度的に進んでいますが、東京都はいまだ人口が増加傾向にあります。特に、都心5区といわれる千代田区・港区・中央区・新宿区・渋谷区は、人口減少と無縁です。それどころか、再開発によって人口が流入しています。

 先ごろ開業した高輪ゲートウェイ駅(港区港南)は、鉄道駅として利用できるようになりました。しかし「まちびらき」は2024年とされており、周辺は急ピッチでまちづくりが進行中です。

三田にある不思議な形の巨大な建物

 再開発が進められている高輪ゲートウェイ駅の目の前には、第一京浜と呼ばれる幹線道路があります。この第一京浜を田町駅方面へと進むと、突如として不思議な形をした巨大な建物が目の前に現れます。それが、在日クウェート大使館(港区三田)です。

再開発により第一京浜に面したビルが撤去され、一時的に全体が俯瞰(ふかん)できるようになった在日クウェート大使館(画像:小川裕夫)



 1990(平成2)年にイラクが侵攻したことを機に湾岸戦争は開戦。多くの日本人は、湾岸戦争でクウェートという中東の国を知ることになりました。それまで、クウェートという国を知らなかった日本人は多かったことでしょう。

 産油国として知られるクウェートは、1961(昭和36)年にイギリスから独立。1962年に港区三田に大使館を設置しました。

 在日クウェート大使館は、第一京浜に面していません。第一京浜と在日クウェート大使館の間には、いくつかの建物がありました。第一京浜沿いには住友不動産のビルが建ち、それらのビルに阻まれて、第一京浜から在日クウェート大使館全体を見ることはできなかったのです。

建築界で半世紀以上のトップランナー

 現在、再開発事業によって第一京浜沿いの建物は取り壊されています。そのため、第一京浜沿いから一時的に在日クウェート大使館が見られます。

 第一京浜の札の辻交差点には歩道橋が架かっており、この歩道橋の上が在日クウェート大使館を見ることができる絶好のスポットになっているのです。

 ちょっと特殊な形状をした在日クウェート大使館ですが、その在日クウェート大使館のデザインをしたのが日本人建築家として世界に知られる丹下健三です(1970年建設)。

 丹下は国内・国外を問わず、数多くの建築物を手掛けました。東京都内にも、丹下デザインの建築物は今でも残っています。

 代表的な丹下の建築物には、西新宿にそびえる東京都庁舎(新宿区西新宿)があります。

西新宿の都庁舎も丹下作品。こうしたことから丹下は、「東京をデザインした建築家」とも言われる(画像:小川裕夫)



 1993(平成5)年に有楽町から移転した新しい都庁舎は、役所としての機能を果たすかたわらで東京の景色を一望できる展望室も設けられました。展望室は無料のため、デートで訪れるカップルや観光客に人気が高く、定番のスポットになりました。

 西新宿に移転する前の、有楽町にあった旧都庁舎も丹下が設計しています。旧都庁舎は1957(昭和32)年に完成しています。実力がなければ、東京都の代表的な建築物である都庁舎のデザインを担当させてもらえません。つまり、丹下は半世紀以上も建築界でトップランナーを務めてきたのです。

 そして、1964東京五輪でも、丹下は重要な施設を手がけています。1964東京五輪は、敗戦から立ち直った日本が国際的に存在感をアピールする場でもありました。

 東京五輪には、海外からも多くの賓客が訪れます。そのため、政府や東京都は国威発揚をうたい、一致団結を掲げました。

今でも色あせない国立代々木競技場

 国家の威信がかかった五輪に、政府・東京都は一丸となります。出場するスポーツ選手の養成もさることながら、東京という都市のインフラ整備にも力を入れました。そうした事情から、他国と比べても恥じないような立派な競技場がつくられていきます。

 丹下が担当した国立代々木競技場(渋谷区神南)は、第一体育館と第二体育館から成ります。1964東京五輪では第一体育館で競泳、第二体育館でバスケットボールがおこなわれました。

原宿駅の近くにある国立代々木競技場。圧巻の丹下建築としても人気が高い(画像:小川裕夫)



 そんな1964年の東京五輪から、約半世紀が経過。国立代々木競技場は歳月を経て老朽化していますが、それでも競技場として現役です。

 なによりも、国立代々木競技場は近隣に明治神宮や原宿駅があるため、現在でも周辺は常に多くの人出でにぎわいます。そういったことからも、丹下デザインの競技場を自然と目にする人は多く、それゆえに親しみの強い施設、なじみの光景になっています。

 東京都内には、ほかにも丹下作品の建築物がいくつか残っています。東京五輪を前に、それらを巡ってみるのもいいかもしれません。

忘れてはならない丹下を支えた2人の存在

 そうした建築物に触れた後、もう一歩踏み込んで思いをはせてみてください。

 というのも、国立代々木競技場は第一体育館・第二体育館ともに丹下作品という認識が根強くなっています。しかし、実際は丹下が意匠設計を担当し、同じく建築家の坪井善勝が構造設計、井上宇市が設備設計を担当しました。

 坪井も井上も、丹下に比べると知名度は大きくありません。しかし、坪井・井上の力がなければ国立代々木競技場が日の目を見ることはありませんでした。

上空から見た国立代々木競技場(画像:写真AC)

 丹下がいくら建築界のスーパースターといっても、国立代々木競技場が完成するにはふたりの力が必要不可欠だったのです。そして3人の力を合わせたことで、現代にまで語り継がれる名建築の競技場が完成したのです。

五輪開催可否を超える施設関係者たちの思い

 現在、世界を震撼(しんかん)させるコロナウイルスのまん延により、東京五輪の開催が危ぶまれています。延期なら、時期を改めて競技場が使用されることでしょう。

 仮に中止という判断がくだった場合、新たに建設された競技場はひのき舞台として日の目を見ません。

 そうした事態が起きても、建築家をはじめ多くの工事関係者たちが最高のパフォーマンスを発揮するアスリートたちの活躍を夢見て、心血を注いだことは忘れてはなりません。

オリンピックスタジアムとなる予定の「新国立競技場」は隈研吾氏がデザインを手掛けた(画像:写真AC)



 ふとしたことを機に全貌を現した丹下作品の在日クウェート大使館ですが、建築物にはそうした思いがたくさん詰まっています。

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