いつから「花見 = 桜」となったのか? 花見文化の変遷をたどる

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いつから「花見 = 桜」となったのか? 花見文化の変遷をたどる

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小川裕夫

フリーランスライター

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花見文化を変えた将軍・徳川吉宗の政策について、フリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

緊縮時でも娯楽は必要

 コロナウイルスが流行し、コンサートをはじめとする大規模なイベントが次々と開催を取り止めています。大相撲春場所や競馬も無観客で実施されています。

 防疫の観点から、人が集まるイベントが自粛モードになってしまうことは仕方ないことかもしれません。しかし戦乱期でも緊縮時でも、人々が娯楽を忘れることはなく常に人々は享楽・娯楽を必要としてきました。

 時の為政者も、そうした庶民の気持ちを汲んできました。質素・倹約を奨励しつつも庶民の娯楽を根絶やしにすることはなかったのです。

花は変われど、にぎわいは変わらず

 日本独特の文化とも言われる花を愛(め)でながら飲食を楽しむ「花見」は、古代からおこなわれていたと言われます。

 しかし、古代の花見と現代の花見では大きな違いがあります。それが、古代の花見は対象となる花が「ウメ」だったことです。

 新元号「令和」は、万葉集に収録された梅花の宴のワンシーンから採用されました。万葉集には、「花」を詠んだ和歌がたくさん収録されていますが、その中でも「ウメ」が圧倒的です。当時の日本では、花といえばウメを指したのです。

 そして、貴族や農民たちは、ウメを愛でながら歌をうたい、詩を読み、そして酒を飲み、おいしい料理に舌鼓を打ち、踊り、騒ぎました。

飛鳥山公園内に保存展示されている都電車両の前で、花見を楽しむ親子(画像:小川裕夫)



 古代は「花 = ウメ」でしたが、江戸時代には花といえばサクラを指すまでになっていました。それでも、江戸時代の人々はウメのみならずモモ・ツツジ・ボタンなど、いくつもの花を花見の対象にしています。

 さまざまな花を愛でながら、江戸時代の人々は現代人と同じように酒を飲み、料理を口にし、会話を弾ませました。花の違いはありますが、古今東西、花見が大にぎわいする場であったことに変わりはないようです。

「享保の改革」で質素・倹約の時代へ

「花見 = サクラ」を楽しむという、現在に通じる概念が現れるようになったのは、8代将軍・徳川吉宗の治世以降です。

 吉宗が将軍に就位した頃、幕府の財政は困窮を極めていました。そのため、吉宗は質素・倹約を奨励します。質素・倹約を命じられたのは、武士だけではありません。江戸全体でぜいたくを禁じました。

 1716(享保〈きょうほう〉元)年に開始された「享保の改革」と呼ばれる吉宗の施策は、徹底して質素・倹約に取り組みました。

飛鳥山はサクラの中を都電が走るような風景が広がる(画像:小川裕夫)



 他方、質素・倹約は町民たちの暮らしから楽しみを奪う政策でもありました。楽しみがなくなれば、生活は息苦しくなります。あまりに退屈な暮らしが長く続けば、その不満は「お上」に向かうでしょう。

 窮屈な生活を強いられる江戸町民たちの心情に配慮して、幕府はぜいたくな娯楽ではないとして花見を許容します。当時から上野の山はサクラの名所として有名でしたが、吉宗はほかにも飛鳥山や御殿山、隅田川に多くのサクラを植樹。花見を楽しめる場を増やしました。

「サクラの名所」を変えた吉宗の政策

 吉宗の植桜政策は、それまでのサクラの名所という概念を大きく変えます。それまで、サクラの名所と言われていた場所の多くは、一本桜が植えられていた寺社の境内地でした。吉宗が断行した大量植樹によって、あちこちにムレザクラ地が出現したのです。

サクラの季節には、たくさんの人が飛鳥山を訪問する(画像:小川裕夫)

 いまやサクラの名所と呼ばれる場所は、数千本のサクラが植えられていることは珍しくありません。吉宗の植桜政策によって、サクラの名所はイメージを大きく変えたのです。

 鉄道が開通している現在は、江戸城(現・皇居)から飛鳥山まで容易にアクセスできますが、当時の移動手段は徒歩もしくは馬ぐらいしかありませんでした。

 飛鳥山までは1日がかりの行程です。郊外にある飛鳥山は多くの町民が集まるような場所ではありませんでしたが、ムレザクラが生み出されたことで一気に名所化。

 ムレザクラの評判を聞きつけた江戸町民たちは、遠距離を物ともせずに飛鳥山のサクラを目指すようになりました。

飛鳥山に植えられたのはヤマザクラ

 吉宗の植桜政策がムレザクラの土地を生み出し、それが「花見 = サクラ」という概念を一気に浸透させました。

 しかし飛鳥山に植えられたサクラは、一番人気のソメイヨシノではありません。ソメイヨシノは幕末から明治初期に誕生した品種とされており、吉宗の治世時にはまだ存在していないのです。

 吉宗が飛鳥山に植桜したのはヤマザクラで、その後も飛鳥山にはヤエザクラが多く植えられました。

飛鳥山公園の場所(画像:(C)Google)



 現在の飛鳥山公園(北区王子)の一帯は、ソメイヨシノも植樹されています。時代ごとに植えられたサクラの品種が異なっているので、飛鳥山では多品種のサクラを楽しむことができます。

今後、日本の花見はどう進化するのか

 日本固有という概念の強い花見文化ですが、日本から移民を多く送り出した国、例えばブラジルでは日本と同様に花見の文化があるようです。しかし、日本人移民たちは世代交代が進んでいるため、日本伝来の花見文化は海外で衰退しています。

 一方、2010年代からは多くの外国人観光客がサクラの季節に訪日するようになっています。外国人観光客の間では、花見を体験するツアーも人気があるようです。

花見を楽しむ外国人のイメージ(画像:写真AC)

 日本固有の花見に感銘した外国人観光客が、母国に戻って自国との文化を融合させた新しいスタイルの花見も生まれてくるでしょう。

 花見の対象がウメからサクラへと移り変わったように、花見も時代とともに私たちが驚くような進化を遂げる可能性を秘めています。

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