皇居の謎解き! 天皇「御所」と江戸城「本丸跡」はなぜとても離れているのか
令和の祝賀ムードにわく皇居。江戸城本丸が現在の皇居東端にあるのに対し、御所があるのは西端付近と、離れた位置関係です。この理由について、東京の地形や地理に詳しい、ライターの内田宗治さんが解説します。天皇の御所と江戸城本丸跡には距離がある 皇居は今、私たちにふたつの面を見せてくれています。 ひとつは、5月4日(土)の皇居長和殿での御即位一般参賀に14万人以上が訪れたように、令和の新時代を祝うムード。もうひとつは、天守閣(正式には、江戸城では「閣」の字を入れず天守と呼びます)や本丸御殿のあった江戸城本丸跡など、江戸時代を忍ばせる面です。 二重橋へ向かう観光客。外国人の姿も多い。背後は伏見櫓(ふしみやぐら)(2019年5月、内田宗治撮影) 場所でいえば、前者は一般参賀者の目指す場所である宮殿前の広場(宮殿東庭)など。新天皇や皇族の方々に大勢が日の丸を振っていた所です。そこに至るまでに通る皇居前広場での長蛇の列や皇居の正門にあたる二重橋なども、よくメディアに登場しました。皇居前広場や二重橋前は、特別の日以外でも訪れることができます。 せっかく皇居に来たのだから、もうひとつの見どころ、江戸城跡に行こうとすると、そこまで想像以上に時間がかかります。二重橋前から江戸城入口にあたる大手門まで、道のりで約1.1キロ、そこから天守跡までさらに約1キロ。歩いて約30分もかかるのです。 このように天皇が住まわれる御所や宮殿と、徳川将軍の居所もあった江戸城本丸御殿跡とはとても離れています。なぜこんなことになったのでしょうか。 実は御所は「江戸城外」にある!? 明治維新の際、旧江戸城に明治天皇が入って皇居になった(1868年)と、歴史の教科書に書いてあったと思います。確かにそのとおりなのですが、現在の御所は、実は江戸城の外と言っていい所にあるのです。 順を追って述べますと、明治天皇の御所は、天守のある本丸御殿の地ではなく、そこからやや離れ、お濠を隔てた西の丸に置かれました。 現在の御所(平成時代と同じくしばらく上皇・上皇后が住まわれています)は、さらに本丸から離れ、吹上地区にあります。ここは、江戸時代初期は徳川御三家の大名屋敷、明暦の大火(1657年)後は火除地の庭園だったりした所です。 狭義に解釈すれば江戸城外の地のわけです。御所と江戸城本丸天守跡とは、直線距離で約700メートルも離れています。 江戸城は「西からの攻め」に弱かった江戸城は「西からの攻め」に弱かった このようになったのは、1590年に徳川家康が江戸城に入ったとき、江戸城にはひとつ弱点があったことと関係しているでしょう。 弱点とは「西からの攻めに弱いこと」です。 皇居より西側には奥多摩の山方面に向けて武蔵野台地が広がっています。そこには甲州街道沿いに数十キロにわたって新宿、四ッ谷を経て皇居半蔵門まで、平坦な尾根筋(おねすじ)が続いています。 尾根筋というのは谷とは反対に、山の稜線、周囲より高くなった峰と峰とを結ぶ線です。敵は一気呵成(いっきかせい)にこの尾根筋を通って攻めてきそうです。尾根筋を横切って谷があれば、谷の上の高い所から敵を待ち伏せできますが、そうした谷もありません。 今は広い芝生となった江戸城旧本丸(東御苑内)。天守跡から、将軍の御殿、大奥などの跡地を望む(2019年5月、内田宗治撮影) 江戸城本丸は武蔵野台地の東端に造られています。本丸の地は標高約12メートル。現在の東京駅方面、標高2メートルほどの大手町の低地からは見上げるような崖上にありますが、皇居のほぼ中心部に位置する紅葉山などは標高27メートルあります。紅葉山の方が天守の地にふさわしく思えますが、そうしていません。 その後江戸幕府は約50年かけて江戸城の整備を大がかりに進め、本丸のすぐ西に蓮池濠、その先紅葉山を挟んで道灌(どうかん)濠、さらに内濠(半蔵濠など)、そのまたさらに四ッ谷付近の外濠と四重にも防御ラインとしての濠を造り上げました。江戸城の西側、甲州街道沿いには徳川御三家や譜代の大名の屋敷を構えて万全を期します。 明治時代に入り、敵が攻めてくる脅威はなくなりました。もう四重ものお濠に守られた形の場所に居を構える必要はありません。現在の御所は本丸から西にお濠をふたつ飛び越して内濠のすぐ内側にあります。江戸城本丸が現在の皇居東端にあるのに対し、御所は西端付近に位置することになりました。 これらについて、もちろん他の事情によることもあるでしょうが、地形を考えながら歴史を考察すると、その楽しみが豊かになる一例です。 新時代に思いを馳せながら江戸城旧本丸散策を 江戸城旧本丸のある皇居東御苑は、大手門などから入場無料で入ることができます。大手町駅から徒歩3~5分、東京駅からも徒歩10分ほどです。 明暦の大火(1657年)で天守が焼失してから天守は再建されていないのが残念ですが、石垣の台座が残されています。かつては5階建て(5層)の堂々たる建物が江戸の町を見下ろしていました。 今は広い芝生となっている地に、将軍の居所や大奥、執務室、忠臣蔵の発端となった松の廊下などがありました。現存しているものでは天守の代わりをしてきた富士見櫓(ふじみやぐら)、百人番所のほか、往時を復元した二の丸庭園などもあります。 少し歩くことになりますが、二重橋付近と江戸城本丸跡付近(東御苑)と、歴史や地形、それに令和の新時代に思いを馳せながら、両方を訪れるのはいかがでしょうか。
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