緊急事態宣言下のアメ横商店街がこぞってマスクを売りまくった歴史的背景
緊急事態宣言下のアメ横 去る5月中旬、緊急事態宣言が発令されている上野のアメヤ横丁(以下、アメ横)へ、初めて宣言後に出向いたときのことです。 アメ横を通りかかると、まだ半分ぐらいの店は閉まっていましたが、すいている店ではドラッグストアのみならず、カバン屋、時計屋、乾物屋などさまざまな業種の店で、マスクと消毒液が売られていました。 いつもよりずっと人通りの少ない5月中旬のアメ横(画像:五十嵐泰正) 光景は一昔前のマスク不足の頃と比べてうって変わりましたが、何を売る店かに関わらず、こぞってマスクと消毒液を売るこのスタイルを見て、「まさにアメ横!」というたくましさを感じたのは筆者(五十嵐泰正。筑波大学大学院准教授)だけではないでしょう。 今回は少しだけ上野の歴史をひも解きながら、このアメ横についてお話していきましょう。 商店主たちの不思議な意識 アメ横の商店主たちに話を聞くと、「アメ横には歴史がない」ということを言う方に出会うことがよくあります。でもこれは考えてみれば少しおかしな話です。 よく知られているように、アメ横の起源は第2次世界大戦終戦後のヤミ市にあります。アメ横と呼ばれるようになったのは、1947(昭和22)年秋ごろから。 上野駅という大ターミナルから至近のこの地に、「外地」から帰還した引き揚げ者や復員兵、周辺の農漁村からの担ぎ屋(闇物資を地方から都市へ運んで売る人)、地回りのヤクザ衆、そして旧植民地出身者が、いわば「横一線」で流入して露店を開き、当時は貴重だった「芋アメ」などの甘味が多く売られていたことに由来します。 戦後の雰囲気を色濃く残すガード下(画像:五十嵐泰正) その後、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まるとそこに、米軍からの放出物資が売られる「アメリカ横丁」という意味も加わり、「腹を満たす」ものを求めて人々が殺到したヤミ市から、舶来の最先端のものが何でも見つかるマーケットへと移行し、アメ横はさらに隆盛を極めていきました。 40年間で36%の店が残存40年間で36%の店が残存 ただ、75年前の戦後はもはや「歴史」の領域です。 ヤミ市の痕跡をこれほど色濃く残す大規模な商店街は、東京でアメ横が唯一の存在であるため、戦後復興を感じさせるこの街はもはや歴史遺産と言ってもいいでしょう。 しかも、近年移り変わりが激しいとはいえ、2~3代目の店主が継ぐ店もアメ横にはまだまだ結構あります(残念ながら、このパンデミック〈世界的大流行〉をきっかけとした廃業の話はちらほら耳に入ってきますが)。 アメ横商店街連合会加盟店マップ(画像:アメ横商店街連合会) 以前、1960年代半ばから2000年代半ばの約40年間で、上野のメインストリート・中央通りとアメ横でどのぐらいの店舗が残存しているのか、住宅地図を使って調べたことがありますが、アメ横の残存率は36%で、中央通りの28%よりもむしろ高いぐらいでした。 「売れるときに、売れるモノを売る」 ではなぜアメ横の商店主たちは「歴史がない」という意識を持っているのでしょうか。 それは、江戸時代に寛永寺(台東区上野桜木)の門前町から発展した長い歴史を持つ上野では、アメ横が最後発の商店街だからです。人は誰でも、身近な周囲と比べて自分たちのアイデンティティーを持ちますから、そうなると、アメ横は「歴史がない」という話になってしまいます。 さらに重要なのが、たとえ長く続いている店であっても、アメ横の店は一般にイメージされる老舗とは少し異なる場合が多いこと。 なぜなら、「高度成長期にゴルフブームが始まって、売れるとみれば一夜にしてゴルフ用品店を扱う店が通りに並んだ」というような、大胆で急速な商売替えを繰り返してきたところに、アメ横の最大の特徴があるからです。 「何を売るか」にさほどこだわらない一方、「もうかるモノを売る」「売れるモノを売れるときに売る」のがアメ横の商売人。時代と客のニーズの変化を的確にとらえて対応する、その変わり身の早さがヤミ市時代からアメ横の活力の源泉だったのです。 至る所でマスクと消毒液が売られていた2020年5月のアメ横(画像:五十嵐泰正) 言ってみれば、「変わらないことに価値がある」という歴史の構築にあまり重きを置かず、商売の街というアイデンティティーに誇りを持ち、「もうけること」にこだわってきた、そんな街なのです。 作られた「ニッポンの歳末」の光景作られた「ニッポンの歳末」の光景 その象徴が、メディアがこぞって取り上げるあの年末の雑踏です。 あの映像でしかアメ横を見たことがない人は、魚屋が立ち並ぶ商店街だと思うかもしれません。しかし実際には、常設の鮮魚店はアメ横センタービル周辺などのごく一部で、年末時だけ、マグロやイクラを売る乾物屋、軒先を魚屋に貸す靴屋や洋服店などが多数登場し、あの「ニッポンの歳末」の光景が出来上がります。 筆者が年末限定の魚屋でバイトをした際の写真(画像:五十嵐泰正) アメ横の年末商戦の始まりは、高度成長期の暮れに帰省する地方出身者たちが上野駅での切符の発券を待っている間、新巻きザケをアメ横で買って行ったことが始まりだと言われます。 それ以来みなさん、まさに「年末に売れるモノを売って(もしくは売れる店に貸して)」きたわけです。 そんなアメ横の商売人たちが、人々が感染症に危機感を強くしたこの時期に、窮余の一策としてマスクをこぞって売り出したのは自然なことと言えます。 強固な商品の仕入れルート また、もうひとつ忘れてはいけない要素があります。 それは、舶来品が何でも手に入るアメリカ横丁と呼ばれた時代から、海外からの商品仕入れルートを独自に開拓してきた伝統です。 アメ横の業態転換はしばしば顧客層のシフトと連動して行われてきましたが、1980年代からアジア各地の食材が並ぶセンタービルの地下街も、定住外国人の増加とエスニックブームというトレンドに、輸入仕入れのノウハウがあった食料品店がいち早く対応したものです。 ハラルフードの表示も目立つ、アメ横センタービルの地下(画像:五十嵐泰正) 今回のマスク騒動では、中国やベトナム産のマスクを世界的に奪い合うという形で起きましたが、こうした状況下で独自の仕入れルートを確保できたことこそ、アメ横の面目躍如と言えましょう。 次回は、アメ横の後編。この街の2000年代以降の変化、そしてパンデミック後のありかたを展望していきます。
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