新宿の戦争遺跡「戸山ヶ原」にたたずむ教会が封じ込めた軍都の記憶

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新宿の戦争遺跡「戸山ヶ原」にたたずむ教会が封じ込めた軍都の記憶

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黒沢永紀

都市探検家・軍艦島伝道師

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新宿区の戸山エリアにかつてあった大規模な軍事施設について、都市探検家の黒沢永紀さんが解説します。

江戸時代は徳川家の下屋敷

 新宿区のほぼ中央、現在の住所で戸山と大久保3丁目には、かつて大規模な軍事施設がありました。今回は都内に数多く残る戦跡のひとつ、戸山ヶ原(とやまがはら)の話です。

 戸山ヶ原は南が大久保通り、北が諏訪通り、東が早稲田大学の戸山キャンパス、西がJR山手線に囲まれた、東西約1km、南北約800m、ディズニーランドが優にふたつ入るほどの広大な敷地です。

平和を祈念し続ける日本基督教団戸山教会。石造りの部分がかつての将校集会所(画像:黒沢永紀)



 中央を南北に走る明治通りを中心に東側には、戸山公園の箱根山地区、早稲田大学戸山キャンパス、国立感染症研究所(感染研)、国際医療研究センター、学習院女子大学、都立戸山高等学校、そして巨大団地の戸山ハイツなどがあります。

 江戸時代、この一帯は尾張藩徳川家の下屋敷で、敷地内には小田原宿の再現や築山「玉円峰(ぎょくえんぽう)」など、趣向を凝らしたさまざまな景観が造られ、戸山荘と呼ばれていました。将軍も観覧に来るほどの名庭園だったようですが、幕末の頃の大火で荒廃して以来、再興されることはありませんでした。玉円峰は「箱根山」と名前を変え、23区内の最高峰(44.6m)として、現在も戸山公園に残っています。

 維新後は軍用地となり、軍楽(軍隊の士気をふるいたたせるために演奏する音楽)や体操など陸軍の総合的な教育機関だった戸山学校が開設。荒廃した戸山荘をそのまま流用した演習場は一面の原っぱで、その光景から一帯は戸山ヶ原と呼ばれるようになったようです。

明治維新後に設営された競馬場

 さらに戦時色が強くなると、東部(現在の感染研や国際医療研究センター周辺)には軍医学校と陸軍病院が、北部(現在の学習院女子大学周辺)には近衛騎兵連隊も開設され、一帯は戦争一色に染まりました。

 明治通りを挟んで西側には、戸山公園の大久保地区ほか、早稲田大学理工学部キャンパス、スポーツセンター、中央図書館、タワーマンション、そして私立保善高校があり、北西の外れに都営大久保3丁目アパートがあります。

 江戸時代、明治通りの西の一帯には鉄砲玉薬組の組屋敷がありました。玉薬(たまぐすり)とは弾薬のこと。大久保通りから諏訪通りまで、1軒の南北が800メートルにもおよぶ細長い屋敷で、現在の戸山公園大久保地区は、立ち並ぶ組屋敷の北部に相当し、主に農耕地として使われていたようです。

 玉薬組は幕府直轄の機関で、ほかの大名に比べさまざまな特典を与えられていました。すなわち戸山と大久保3丁目は、共に幕府に大きく関わっていた土地だったと言えるでしょう。

 維新後しばらくたった1879(明治12)年、時の米大統領グラント将軍の来日歓待のために、この大久保エリア(現在の早稲田大学理工学部周辺)に競馬場が設営されました。歓待試合の後も、戸山競馬場として一般向けの競馬が行われたようですが、交通の不便から客足が伸びず、1884(明治17)年に競馬場は上野不忍池へ移転、戸山競馬場は短い歴史に幕を下ろします。

1989年、感染研の工事現場から見つかった人骨

 競馬場の跡地は射撃練習場となりますが、昭和に入って周囲の住民が増えると、訓練中の流れ弾が当たっての死亡事故が発生しました。そこで軍は1926(昭和元)年に全長300mにもおよぶ屋内射撃施設を7棟も建設。ずらりと並んだ射撃場は、むき出しのトンネルが並んだような異様な光景でした。

 戦後戸山ヶ原は、連合国軍総司令部(GHQ)の接収時代を経て、学習院女子大学や戸山ハイツを皮切りに、暫時大規模な開発が行われ、やがて現在の形へたどり着いています。今でも、戸山と大久保3丁目に民家はほとんどなく、戸山ハイツなどの計画団地以外は、公園をはじめ、学校や国公立の施設だけで埋め尽くされています。

 敗戦から40年以上たった1989(平成元)年の7月、目黒より移転した感染研の工事現場から大量の人骨が発見されました。

国立感染症研究所の敷地内に佇む、解明の時を待つ多くの人骨が眠る人骨保管施設(画像:黒沢永紀)



 警視庁の科学捜査研究所(科捜研)は犯罪性のないものと鑑定し、厚生省(現・厚生労働省)も身寄りなしの人骨として新宿区に火葬を要求。これに対し、新宿区と住民はより詳細な身元調査を依頼しました。

 実はかつてこの場所にあった陸軍軍医学校は、関東軍防疫給水本部、通称731部隊と密接な関係にありました。731部隊は、戦中に生物化学兵器の開発や実践を行ったとされることで知られます。身元調査の依頼は、発見された人骨が部隊の実験等に関係するものではないかという疑念からのものでした。

もともと将校の集会所だった戸山教会

 発見から12年が過ぎた2001(平成13)年の6月、厚生省は由来調査の結果、人骨が軍医学校の医学標本であることを認め、今後も調査を継続するため、保管することで一段落しました。

 しかし発見から30年たった2019年の現在も、731部隊との関連性や生体実験の証拠などは見つかっていません。敷地の片隅にある人骨保管施設に安置された亡きがらは、来るべき真相解明のときを待ちながら、今も静かに眠っています。なお、人骨保存施設は、感染研への申し込みで、一般見学が可能です。

軍医学校と陸軍病院をつないでいたとされる地下通路の跡(画像:黒沢永紀)



 また、箱根山地区にあるマンモス団地「都営戸山ハイツ」は、もともとマッカーサー元帥の命によって、戸山学校の跡地に建造された約1000戸の木造住宅街でした。その建屋は、米軍宿舎のためにアメリカから持ち込んだものだったそうです。

 そして戸山学校の中心に位置した箱根山の麓には、日本基督教団の戸山教会があります。「戸山ハイツの人々にとって心のよりどころとなる施設の建造」というGHQの意向に対し、都が提案したのが教会の建設でしたが、これはアメリカへの感謝の印だったともいわれます。

 実はこの教会は、戸山学校時代の将校集会所を土台として建てられたものでした。弧を描く部屋を併設した石造りの半地下は、一部幼稚園の教室としても使われ、それ以外の倉庫として使用されている部分も、当時の造りを今に伝えています。

 蛇腹が施されたしっくい塗りの格(ごう)天井や、戦前の建築でよく見かける砲弾の形をした階段の親柱など、当時の特徴的な意匠が散見します。また、かつての水場だった部屋の奥には3つのトイレ用個室が残り、そのひとつは行幸の際に昭和天皇がご使用になった場所とか。

戦争の記憶を今に伝える数々の遺構

 階段の下には、将校の落書きと伝わる「本来無一物 雲呑峯」の達筆な文字が残されています。雲呑峯は雅号でしょうか。「本来無一物」とは、禅宗が説く善も悪も超越した境地。戦争を逃れることが許されない、将校という立場の苦悩のようにも読み取れます。

 現在、平日は幼稚園としても使われ、近隣の子どもたちの学びの場として活用されています。戸山教会は、その建屋に軍都の記憶を封じ込めることで、今後も平和のメッセージを発信し続けることでしょう。

 その他、陸軍軍医学校と陸軍病院をつないでいた地下道の跡や、大久保地区の射撃場を囲っていた土塁跡、そして学習院女子大学構内の近衛騎兵連隊の兵舎跡など、戸山ヶ原には戦争の記憶を今に伝える遺構がいくつか残存しています。

戸山公園の大久保地区に隣接して残る射撃場の土塁跡(画像:黒沢永紀)



 戦後、「行使できない自衛権」からスタートした平和の誓いは、70余年の間に少しずつ変質してきました。それは、決して武力を縮小する変質ではなく、増強するものばかりです。

 しかしどういう事情があるにせよ、武力に頼らない解決を模索し続けることが、戦後の誓いを守ることではないでしょうか。もし戦争遺産が全てなくなってしまったら、いつしか戦争があったことも忘れてしまいかねません。戦争の記憶を風化させないためにも、人骨保管施設や将校集会所の上に立つ教会堂は、未来へ継承されてほしいと思います。

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