情熱はカレーより熱い!リトルインド西葛西の立役者「江戸川インド人会」の奮闘(前編)
「リトルインディア」として、近年その名が知られ始めた江戸川区西葛西。そもそもなぜこのエリアにインド人が多く住んでいるのでしょうか。その背景には、一人の男性の奮闘がありました。「2000年問題」の助っ人だった来日インド人 東京の東端に位置する西葛西(江戸川区)は、日本でもっとも多くのインド人が住むエリアとしても知られています。自転車の後部座席に赤ちゃんを載せた女性から、せわしげに電話をするビジネスマンまで、その数、約3000人といわれています。 西葛西駅の近くでは、インド人のさまざまな生活風景を見ることができる(2018年6月13日、國吉真樹撮影) 西葛西にはなぜインド人が多いのでしょうか。この答えを知るためには、時計の針を1998(平成10)年まで戻す必要があります。 日本の金融機関などは当時、「2000年問題」の対応に追われていました。「2000年問題」とは、西暦2000年以前に作られたコンピュータなどの一部が、2000年1月1日に不具合を起こすとされていた問題で、これを解決するために「助っ人」として日本に呼ばれていたのが、IT大国・インドの若手技術者たちだったのです。 インドの大手IT企業から派遣された彼らの多くは、大手町や茅場町などの都心で働いていましたが、しだいに大きな問題に直面するようになりました。それはインドと日本の「衣」「食」「住」文化の違いです。特に「食」の違いは深刻でした。 「ベジタリアンで日本食が食べられない」 インドは多宗教国家。その中でも大多数を占めるヒンドゥー教徒にはベジタリアンが多く、日本の料理を食べられないケースが頻発していたのです。そのような彼らを支えた組織が西葛西にありました。在日インド人実業家のジャグモハン・チャンドラニさんと、彼が同年に立ち上げた互助会「江戸川インド人会」です。 夕暮れ時の西葛西駅の様子(2018年6月13日、國吉真樹撮影)「いやぁ、あのころは本当に大変でしたよ。わっはっはっは!」 ここは西葛西のインド料理店「スパイスマジック カルカッタ 本店」。流ちょうな日本語で豪快に笑っているのは、同店を経営するチャンドラニさん本人です。チャンドラニさんはトレードマークの白く長い髭を揺らしながら、パコラ(インド風の野菜天ぷら)をつまんでこう話します。 「1998年ごろから、西葛西で若いインド人を多く見かけるようになりました。もちろん私の知り合いではありません。街中をいつもうろうろしていました。彼らはいったい何をしているのだろうと疑問に思ったので、西葛西に昔から住んでいるインド人数人と話し合い、江戸川区の施設の会議室を借りて、彼らを一度集めてみようということになったのです。話を聞くためにね。8月の週末だったかな」 電話をしながら歩くインド人の姿を多く見かけた(2018年6月13日、國吉真樹撮影) 訪れてもせいぜい数人だろうと考えていたチャンドラニさんたち。しかし、ふたを開けてみたら30人以上が集まりました。彼らは全員、男性のIT技術者たちでした。 「話を聞いたら、『自炊をするために家を探していた』と言うのです。当時、彼らは都心のホテル住まいでしたから、食事は外食しかないわけです。でもベジタリアンだから、日本の料理が食べられないと。ですから、自分で家を借りて自炊をするしかないと考えていたのです」 しかし彼らの前に立ちふさがっていたのが、日本独特の「保証人」「敷金・礼金」という賃貸契約の仕組みです。自国では時代をけん引するエリートである彼らも、日本ではいち外国人。ましてや日本企業との契約が終わったらインドへ帰る身です。 若手IT技術者たちを助けるために奔走 彼らの現状を知ったチャンドラニさんはさっそく、知人男性を会長に据えて、互助会「江戸川インド人会」を結成。知り合いの不動産業者や物件オーナーと交渉を始めました。外国人向けの賃貸物件が数多く存在する現在とは事情が違います。彼らを助けてあげたいという気持ちだけが、チャンドラニさんを後押ししました。 西葛西駅近くの歩道橋から(2018年6月13日、國吉真樹撮影)「彼らは高給取りですよ」 「彼らは集団で住まないと、私に約束してくれました」 さまざまな言葉を使って、不動産業者たちに彼らを売り込みます。しかし業者たちはチャンドラニさんのことはよく知っていましたが、不安は隠しきれません。そういった時代でした。 「分かったよ。でも、保証人はどうするのか」 業者のひとりが重い口を開きました。悩むチャンドラニさん。もちろん保証人にさまざまな責任が付いて回ることを知っています。しかし引き下がるわけにはいきませんでした。彼らの保証人になることを伝えたのです。 「スパイスマジック カルカッタ 本店」に貼られたチャンドラニさんのポスター(2018年6月13日、國吉真樹撮影)「保証人のハンコはどうしたのかって? ワイフ(奥さん)に内緒で押しちゃった。わっはっはっはっは!」 名門デリー大卒、1978年に来日 チャンドラニさんが来日したのは、その出来事から20年前の1978(昭和53)年のことです。当時26歳。インド屈指の名門であるデリー大学を卒業し、日本で新規ビジネスを開拓するためにやってきました。チャンドラニさんの一族はインドで代々続く貿易商。社長である父親の助言を得て、日本の地に降り立ったのでした。 神楽坂に1年間住んだのち、インドからの輸入品である紅茶を保管するために、当時、倉庫団地が出来たばかりの西葛西に移ってきました。1979(昭和54)年10月1日に開業する西葛西駅はまだなく、インド人はもちろんのこと、日本人ですらほとんど住んでいない土地でした。 (後編に続く)
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