蒲田はなぜ「映画の街」となり、そしてひっそり消えていったのか
2019年12月3日
知る!TOKYO東京・蒲田にかつて映画スタジオがあったことをご存知でしょうか? その名も「松竹蒲田撮影所」。1936年の撤退まで日本映画の名作を数々と送り出してきました。そんな松竹蒲田撮影所の変遷について、ルポライターの昼間たかしさんが解説します。
数々の名作が生み出された撮影所だった
そんな松竹蒲田撮影所で製作された映画は約1200本。田中絹代の主演で製作された『伊豆の踊子』や、小津安二郎の初期作品『大人の見る繪(え)本 生れてはみたけれど』など、映画の歴史に興味ある人なら観たことはなくても知っているという作品が数多く撮影されました。
そして、日本初の本格的トーキー映画である五所平之助監督の『マダムと女房』が製作されたのも、松竹蒲田撮影所でした。トーキー映画とは、今では当たり前の声が出る映画のこと。製作されたのは1931(昭和6)年。アメリカで初の本格的なトーキー映画『ジャズ・シンガー』が製作されたのは1927年ですから、わずか4年で追いついたのです。
さて、トーキー映画の誕生は映画業界に激震をもたらします。いつの世でも新技術に対してネガティブな見方をする人はあるもので、トーキー映画も当初は「そんなものが流行るはずはない」と思われていました。普及して僅か20年足らずなのにサイレント映画は、それだけで完成した形式と思われていたわけです。
サイレント映画とトーキー映画は同じ映画のように見えて、まったく違います。なにしろ、俳優がその場で演技して声も録音されるわけです。アメリカのミュージカル映画『雨に唄えば』でも描かれていましたが、このために第一線から消えていく俳優も数多くいました。見栄えも演技もよいのに声がガラガラ声ではトーキー映画には出演などできようもなかったのです。
しかしその後、松竹蒲田撮影所で映画を撮影することは不可能となりました。映画はカメラが回り始めたら雑音を出してはいけません。しかし撮影所の周囲は工場だったのです。こうして1936(昭和11)年、松竹蒲田撮影所は閉鎖されて松竹大船撮影所(2000年閉鎖)へと移転していったのです。

その跡地は高砂香料工業に売却され、工場も姿を消し現在は1998(平成10)年に竣工したニッセイ・アロマスクエアと大田区民ホール・アプリコ(以上、大田区蒲田5)になっています。

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