新宿歌舞伎町は明治以来、感染症バトルの「聖地」だった コロナ感染拡大のいま振り返る

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新宿歌舞伎町は明治以来、感染症バトルの「聖地」だった コロナ感染拡大のいま振り返る

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内田宗治

フリーライター、地形散歩ライター、鉄道史探訪家

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新型コロナ感染拡大を受けて、現在「感染症」に関心が集まっています。そんな感染症の「聖地」が新宿歌舞伎町にありました。地形散歩ライターの内田宗治さんが解説します。

日本で忘れられたコレラ

 日本一の歓楽街と言われる新宿歌舞伎町。この地には大規模感染症との闘いといった意外な歴史が秘められています。

大久保避病院の敷地だった所に作られた新宿区立大久保公園(画像:内田宗治)



 今回の新型コロナウイルスに限らず、日本では明治時代以降、多くの感染症が流行してきました。その最大のものはコレラです。

 江戸時代末から流行がありましたが、1879(明治12)年、国内に大流行が発生してしまいます。同年のコレラによる日本での死者は約10万5800人、1886年も再び大流行し、この年のコレラ死者は約10万8400人、致死率は70%近くに達するものでした。

 歴史の教科書では明治大正時代に関し、1904(明治37)年の日露戦争(戦没者約8万8400人)や1923(大正12)年の関東大震災(死者・行方不明者10万5000人)が特筆されていますが、犠牲者数はコレラによるもののほうがずっと多かったわけです(このほか一過性のものでは1918~19年スペイン風邪流行による死者約38万人などがある)。

作られた避病院

 当時はワクチンが未開発で、治療法がない状態でした。取り得る措置は患者を隔離して感染拡大を防ぐことくらいです。

 そこで作られたのが避(ひ)病院でした。

 現在では聞き慣れない名ですが、当時感染症専門の病院をこう呼びました。日本で最初の避病院が1877(明治10)年、北品川洲崎旧台場、市ケ谷富久町、本郷向ヶ丘、本所緑町に設置されています。

 ところがそれらの場所は大勢が往来する町中です。そこへコレラ患者を次々に運んでくることに地元から猛反対の声が起き、1886年、従来の避病院を廃止し(本所緑町の避病院は継続)、新たに東京市の市境付近に避病院を設けます。

死を待つためだけの施設

 そのひとつが、東京府豊玉郡大久保村百人町に設けられた東京府立大久保避病院でした。現在の住所では新宿区歌舞伎町2丁目です。ゴジラが屋上に顔を出す新宿東宝ビルの北隣に位置します。

ゴジラが屋上に顔を出す新宿東宝ビル。歌舞伎町の中心地的存在(画像:内田宗治)



 前年(1885年)に山手線新宿駅が開業していますが、一帯は人家の少ない東京郊外といった状態でした。

 このほか、駒込動坂町(現・都立駒込病院)、渋谷村(現・都立広尾病院)にも避病院が設置されていきます。いずれも東京市の町はずれ付近にあたります。

 避病院は多くの場合、死を待つためだけの施設と化しました。

 そのため病人でも避病院行きを嫌ったり、身内では病人を隠したりするものも大勢いました。「避病院では生き血を採られ、肝を抜かれ、燻(いぶ)され、揚げ句の果ては殺される」といったうわさが広がっていました。

 江戸っ子は「ひ」を「し」と発音します。「ひとつ」は「しとつ」と言います。避病院は「死病院」と発音され、そのことも、避病院が忌避されることに拍車をかけたようです。

 コレラ流行が多く発生したのは明治時代前半でしたが、大正時代に至っても流行は起き、1916(大正5)年の流行時、大久保避病院の隔離所では1191人の患者を収容しています。

感染症の「聖地」

 大久保避病院は現在、東京都保健医療公社大久保病院となっています。隔離所も含めたかつての大久保避病院の敷地は現在、大久保病院、東京都健康プラザハイジアのほか新宿区立大久保公園となっています。

前身が大久保避病院の東京都保健医療公社大久保病院と東京都健康プラザハイジアの建物。手前は新宿区立大久保公園(画像:内田宗治)

 同地を訪れると、歌舞伎町歓楽街に隣接しながらも、ここだけ明るく健康的な環境なのが、ちょっと不思議に感じられます。ですが感染症と闘ってきた聖地のような場所という歴史を知ると、その雰囲気に納得することでしょう。

急務だった上水道の建設

 このほかにも歌舞伎町には、感染症と関連することがあります。前述の新宿東宝ビル一帯は、明治時代前半、旧肥前大村藩主の屋敷が広がり、邸内にはカモ猟が行われる池もありました。

24時間眠らない町といわれる歌舞伎町(画像:内田宗治)



 明治時代に入っても東京市民の飲料水は、江戸時代以来の玉川上水、神田上水に頼っていました。町中では道路下に埋められた木製の樋(とい)で水を導いていて、大雨のときなどあふれたし尿が入ることもありました。コレラのまん延は、こうした不衛生な飲み水が原因のひとつでした。

 衛生的な上水道の建設が急務となり、1898(明治31)年、現在都庁などの高層ビル群がある地に、淀橋浄水場を完成させます。水を沈殿ろ過し鉄管での通水が開始されました。

 浄水場の沈殿池を掘った際、大量に発生した残土の引受先として、旧肥前大村藩主邸などが使われ、カモ猟が行われていた邸内の大きな池は埋め立てられました。

かつてあった名門女学校

 その後、尾張屋銀行頭取の峯島喜代が旧肥前大村藩主邸の土地を購入し、1920(大正9)年、女性の社会進出を促す教育のためにと、同地を東京府に提供して府立第五高等女学校が開校します。現在の大歓楽街の地には、かつて名門女学校が立地していたのです。

 同校は太平洋戦争時に被災し、中野区富士見町(現弥生町)に移り、現在の都立富士高校となっています。

1931(昭和6)年に発行された地図。地図中の中央付近にある地図記号「文」マークが府立第五高等女学校(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 女学校跡一帯は戦後、地元町会と都が主導して庶民的な娯楽センターを目指します。歌舞伎劇場の誘致計画もあり、歌舞伎町と命名されました。歌舞伎劇場の誘致はできませんでしたが、昭和30年代頃から歓楽街へと急速な発展を遂げていきます。

 飲食店、風俗、もろもろの店がひしめく歌舞伎町は、数奇な運命をたどってきたわけです。

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