高級住宅街「田園調布」は世界のどのまちを模したのか? その誕生の背景に迫る

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高級住宅街「田園調布」は世界のどのまちを模したのか? その誕生の背景に迫る

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鳴海侑

まち探訪家

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日本の高級住宅地の代表格・田園調布。その誕生の背景について、まち探訪家の鳴海行人さんが解説します。

英社会改良家の「田園都市」という概念

 渋谷から東急東横線で約10分。田園調布駅に降り立ち、西側へ向かうと駅前には美しいまちなみが広がります。そして1軒1軒の家は大きく、上質な住宅街の趣があります。

 昔から「田園調布」といえば高級住宅街として有名です。では、この田園調布のまちなみはどのようにして生まれたのでしょうか。

高級住宅の田園調布のまちなみ(画像:写真AC)



 日本は明治維新以降、富国強兵の号令の下に急速な西洋化と工業化を推し進めていきました。すると、東京の市街地は急速に工業化し、都市部への人口集中が起こりました。すると大気汚染や住宅環境の悪化といった課題がでてきました。

 日本に先駆けて工業化が進んでいたイギリスでも同じようなことは起きており、19世紀末に社会改良家のエベネザー・ハワードが「田園都市(Garden City)」という概念を提唱します。ハワードは農村と都市の「いいとこ取り」を指向し、郊外に住宅・工業・農業の機能が隣接した街として「田園都市」の建設を主張しました。この考えは実行に移され、レッチワースという街を生み出しました。

 そして1907(明治40)年にはこの「田園都市」の概念が日本にもやってきます。1907年には内務省地方局の有志が「田園都市」という本を編さんし、1910年には関西で実業家の小林一三が鉄道の建設とともに沿線に住宅開発を行い、環境の良さをセールスし、大阪の都市部の住民の移住を促しました。

 そして東京では1910年代半ばに「日本橋クラブ」という実業家の集まりのメンバーを中心として、理想的な住宅地を手がける会社設立の機運が生まれます。こうして1918(大正7)年に設立されたのが田園都市株式会社です。

理想都市の建設より人口過密の解消が目的だった

 田園都市株式会社のすすめるまちづくりは、エベネザー・ハワードの提唱した「田園都市」的まちづくりよりはむしろ小林一三が行ったまちづくりに近いものでした。田園都市株式会社の中心的メンバーであった実業家の渋沢栄一は「わが田園都市に於いては東京市という大工場へ通勤される知識階級の住宅地を眼目といたします結果、いきおい生活程度の高い瀟洒な郊外新住宅地の建設を目指しております」と語っています。

渋谷と田園調布を結ぶ東急東横線(画像:写真AC)



 また、会社設立趣意書でも「都会に集中せる人口の過剰を農村に移植し、以て都会に潜在する各種の弊害を緩和すると同時に、農村の復興を図らんとする」としており、理想の都市建設よりもむしろ人口過密の解消を目的としていました。

 すると、同社の住宅地は東京都心に通勤する人を主眼として造られることになり、通勤輸送のためには鉄道が必要となります。

 この鉄道の建設が実は東急電鉄のルーツになります。時折、「西の阪急、東の東急」と並び称されることがありますが、実は両社会社設立の動機がまったく異なります。阪急が鉄道敷設そのものを目的として会社が作られ、沿線開発によって建設費をまかなおうとしたことに対し、東急は住宅地を作り出し、その住宅地への交通の便を確保するために会社が作られたのです。

 さて、「田園都市」に話を戻すと、1922(大正11)年、田園都市株式会社は同社としては初めてとなる分譲地、「洗足田園都市」を分譲します。現在の東急目黒線洗足駅周辺に作られたこの住宅地は現在も駅前の「いちょう通り」に面影を残し、一部は高級住宅街として広い面積の邸宅がいまも建ち並んでいます。

独立性が保たれた高級住宅街

 そして続けて開発されたのが「多摩川台地区」、現在の田園調布です。この田園調布の開発にあたってはアメリカの住宅地開発の思想が入ります。そこでキーマンとなってくるのが渋沢栄一の息子・渋沢秀雄です。秀雄は欧米11か国を視察し、サンフランシスコの郊外住宅地セント・フランシス・ウッドに最も感銘を受けます。

田園調布のまちなみ(画像:写真AC)



 セント・フランシス・ウッドは、サンフランシスコ市南部にある同市屈指の高級住宅地です。曲線道路を用いてアクセントを付ける手法が用いられ、街の入口には名前を冠したゲートやモニュメントを置くことで周辺との差別化を図っていました。この街を気に入った秀雄は帰国後「多摩川台地区」をプランニングします。こうして生まれたのが「田園調布」のまちなみだったのです。

 そして、田園調布の開発とほぼ同時期に関東大震災(1923年)が発生します。これにより、住宅を郊外に求める人が相次ぎ、人口の郊外流出が進みました。実ははじめは田園都市株式会社の分譲地の販売は決して順調とは言えませんでしたが、この流れに乗って順調に分譲地を販売していきます。

 また、田園調布では、住民組織「田園調布会」が組織されていきました。この「田園調布会」が渋沢秀雄のプランニングした美しいまちなみを守るために「田園調布憲章」を策定します。中身としてはまちの緑化、美化に努めることとされ、これに基づいて敷地の最低面積や高さ制限、緑化に関する規定などさまざまなルールが決められています。そのため、今日までまちなみの景観が乱れることはなく、独立した高級住宅街のイメージを保っています。

 田園調布を開発した田園都市株式会社はのちに東急電鉄に吸収され、東急電鉄は第二次世界大戦後に田園都市線を建設するとともに、沿線に「多摩田園都市」を開発することになります。

田園調布は東急電鉄のアイデンティティ

 渋沢栄一から小林一三の紹介を通じて東急電鉄の初代社長になった五島慶太は、1951(昭和26)年に社員に対して次のような発言をしています。

田園調布駅の外観(画像:写真AC)



「東急電鉄の前身である目蒲電鉄(現在の東急目黒線と東急多摩川線)、東横電鉄(現在の東急東横線)は田園都市株式会社から生まれたものであり、したがって田園都市業は当社の古いのれんであり(中略)そこで社員全員が協力し、現在の不振を挽回し是非とも、昔の田園都市業に復元することをお願いする」

 初代社長の五島からすると、東急は田園都市業、すなわち住宅開発あってのものという認識でした。すると田園都市線沿線に巨大住宅地を作ったことも頷けますし、不動産業という意味で言えば現在の渋谷の大規模再開発を自社グループで積極的に進めていることも合点がいきます、さらに言えば、田園調布というのは東急電鉄にとっても会社のアイデンティティに関わる重要な場所だということがうかがえます。

 ここまで田園調布の開発経緯や特徴について紹介してきました。住宅地ということもあり、中々訪れる場所ではないのかもしれませんが、もし訪れた際には是非、田園調布のまちなみの特徴や東急電鉄との深いつながりに想いを馳せてみてください。きっと今までとは違う田園調布の見え方になるはずです。

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