「明治通り」「昭和通り」はあるのに、なぜか「大正通り」はない東京のちょっとした謎
東京都内に「明治通り」と「昭和通り」はありますが、なぜか「大正通り」ありません。いったいなぜでしょうか。フリーライターの小西マリアさんが解説します。かつて存在していた「大正通り」 東京には「明治通り」と「昭和通り」があるにもかかわらず、「大正通り」がないことを皆さんはご存じでしょうか。 これはわりと知られた東京の豆知識ですが、もう少し詳しい人であれば、「靖国(やすくに)通り」が、かつて大正通りと呼ばれていたことをご存じでしょう。 現在の「靖国通り」(画像:写真AC) 明治通りと昭和通りがそのままにもかかわらず、なぜ大正通りだけが残らなかったのでしょうか。 まずは、それぞれの道路の歴史について振り返ってみましょう。 スタートは関東大震災後の都市計画から 明治通りは、港区南麻布2丁目から東京をぐるっと回って江東区夢の島に至る環状の道路です。もともとは「環状5号線」という名称で、環七や環八よりも先に始まった道路です。 ぐるっと一周すると、麻布の高級住宅地から原宿や渋谷、池袋を抜け、下町までも一望できるため、東京のさまざまな顔を知ることができる道路です。 神宮前交差点付近の「明治通り」(画像:写真AC) 明治通りは、関東大震災後の1927(昭和2)年の都市計画で整備が始まりました。そのため、明治時代とは関係ありません。 それにもかかわらず明治通りの名が付いたのは、明治神宮(渋谷区代々木神園町)の近くを通るためという説が有力となっています。最初の道路の整備範囲が渋谷駅から神宮前交差点付近まで行われたのです。 港区新橋から台東区根岸までの「昭和通り」も同じく、関東大震災の復興事情として計画されました。 当初の案では現在の倍近い道幅108mが予定されていましたが、受け入れられませんでした。常に渋滞している現在の様子を見ると、計画通りにしておけばよかったのにと悔やまれます。 道路の命名者は新聞社だった道路の命名者は新聞社だった この昭和通りと同時に計画されたにもかかわらず、消えてしまったのが大正通りです。 現在の「昭和通り」(画像:写真AC) 大正通りも、関東大震災後の復興を目的に計画された道路でした。 関東大震災後の計画によると、昭和通りを南北に走る第1号幹線、こちらを第2号幹線として、ふたつを基準に並行する道路を走らせるとされています。 そこで大正通りはもともとの道路を幅36mに広げ、九段坂の勾配を下げる工事をすることで開通しました。 そして、この第1号幹線と第2号幹線の開通にあたって道路に愛称を付けることになりました。ちなみに行政主導ではなく、東京日日新聞(現在の毎日新聞)が帝都復興を記念して公募を行ったのです。。 結果として、公募で人気上位だった昭和通りと大正通りの名がそれぞれつけられることになりました。 「靖国神社の大鳥居の横を走る」インパクトの勝利か ところが、行政が正式に付けたものではないため、あくまで愛称。そのため、行政が戦前にこれらの名前を使うことはありませんでした。 その後、昭和通りは定着したのに対して、大正通りは定着しませんでした。 戦後の1962(昭和37)年、東京都が都道の愛称を制定した際、大正通りは残念ながら選ばれず、靖国通りとなりました。 大正通りが定着せず、靖国通りとなった詳細は今となっては定かではありませんが、急勾配の九段坂を開削し、「靖国神社の大鳥居の横を走る道路」というインパクトのほうが大きかったからではないでしょうか。 赤線部分が吉祥寺にある別の「大正通り」(画像:(C)Google) そのような経緯で23区から消えてしまった大正通りですが、吉祥寺には昭和初期に整備された別の大正通りが存在するため、「東京に大正通りはない」という豆知識はある意味間違っているとも言えるかもしれません。 平成通りも令和通りもあった平成通りも令和通りもあった さて明治・大正・昭和ときたら次は平成ですが、平成通りも都内に存在しています。 平成通りは中央区の日本橋兜町から築地2丁目まで、新大橋通りの西側を走っている通りです。 「平成通り」の範囲(画像:(C)Google) 中央区は、区内の道路に1980年代後半から愛称をつける施策を進めていたため、現在、区内の多くの道路に名前が付けられています。 このとき、銀座マロニエ通り・観世通り・浜町河岸通り・佃大通りなどとともに平成通りが制定されました。道路沿いには看板も立っていますが、定着具合のほどは不明です。 最後に「令和通り」ですが、こちらはまだ都内には存在しません。 しかし山口県山口市は2020年3月20日(金)、JR新山口駅前に開通した県道へ令和通りの愛称を付けています。 個人的には、これには負けじと都内にも令和通りを命名しようとする地域が現れることを期待しています。
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