かつて東京に多く存在したミルクホールはなぜ「ミルク」で「ホール」なの?

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かつて東京に多く存在したミルクホールはなぜ「ミルク」で「ホール」なの?

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食文化史研究家

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現在は一店舗だけになってしまいましたが、かつては東京中に多く存在した外食店舗「ミルクホール」。なぜ、牛乳とスナックを主体にした外食店が、明治時代の東京に突然現れたのでしょうか?そしてなぜ、いつのまにか消えてしまったのでしょうか?食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

神田の栄屋ミルクホール

 神田にある栄屋ミルクホール。

栄屋ミルクホール(画像:近代食文化研究会)



 旧店舗は2021年に閉店し、新店舗が2022年に現在の地にオープンしました。昔ながらの東京ラーメンとカレーライスが人気の店です。

 しかしなぜ、ラーメンとカレーが名物の店に「ミルクホール」という名前がついているのでしょうか?

 ミルクホールとはもともと、1900年代初めに東京に生まれ、戦前に流行した店舗形態。ミルクなどの飲料と、シベリアやワップル(戦前はワッフルのことをワッ「プ」ルといいました)などのスナック菓子を出す店でした。栄屋ミルクホールも、開店当初はミルクを出していたのです。

カステラ生地に羊羹をはさんだシベリア(画像:photo AC)

 「ホール」という名は、ビヤホールにあやかったものです。ビヤホールブーム当時は店名に「ホール」をつけることが流行しており、ミルクホールの他にもみつ豆ホール、日本酒の正宗ホール、きんつばホールなど、さまざまなホールがありました。

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 それにしてもなぜ、ミルクとスナックを提供するという前例のない奇妙な店が、明治時代の東京に突然現れたのでしょうか。

アメリカの模倣から始まったミルクホール

ミルクホールのイラスト/吉井勇『ねむりぐさ : 漫画漫筆』大屋書店1913年刊より(画像:国会図書館ウェブサイト)

 その理由は、当時のアメリカにおいて、ミルクとスナックを提供する店が流行していたからです。ミルクホールはアメリカの流行の後追いでできた店なのです。

 アメリカでは1880年代から、ミルクなどの乳製品とスナックを出す専門店が流行します。「バルチモア・デイリー・ランチ」(dairy lunch=乳製品昼食店)がその代表例で、最盛時には全米で140店舗を展開していました。

 当時のアメリカでは産業革命の進展により都市部に人口が集中、鉄道網により住宅地が郊外に伸びて通勤時間が長くなりました。すると弁当持参が不便になり、オフィス街にランチ需要が生じます。

 そのランチ需要に対応したのが、乳製品とスナックの店だったのです。

 なぜ乳製品かというと、当時のアメリカ人は現在と違い、成人であっても食事の際に牛乳で栄養補給することがあったのです。同時期の巨大レストランチェーン「チャイルズ・レストラン」も、ニュージャージーの牧場が経営母体であり、牛乳を売り物にしていました。

 そしてなぜスナックを提供したかというと、調理がいらないために食事として早く安く提供できたからです。(参照:William Grimes『Appetite City』2010年刊)

学生街の喫茶店から始まった日本のミルクホール

 アメリカを模倣して生まれた東京のミルクホールですが、1900年代の日本ではまだ産業革命が進展していなかったので、オフィス街への人口集中と昼食需要の増大が不十分なままでした。

 そこでミルクホールは、独身男性の人口が集中していた学生街/下宿街で営業を開始したのです。

 そんな学生街のミルクホールを描いた小説に、夏目漱石の『野分』があります。小説中の学生たちは、ミルクホールで雑誌記事を読んだり、雑誌の芸者写真、今に例えるならばグラビアアイドルを眺めながら時間を過ごしています。

ミルクホールの学生たち/吉岡鳥平『当世百馬鹿:漫画漫文』大明堂書店1920年刊より(画像:国会図書館ウェブサイト)

 そんな学生街のミルクホールですが、やがて明治時代末に女給を置いたカフェーが流行、昭和時代のはじめには白十字などのチェーン喫茶店も進出。ライバルの間で埋没し、次第に廃れていったのです。

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ビジネス街に隆盛するミルクホール

 学生街では廃れたミルクホールですが、銀座、日本橋、そして栄屋ミルクホールが存在する神田などのビジネス街においては、むしろ昭和時代に栄えるようになります。

 銀座にあった天ぷらの老舗「天金」の息子の国文学者・池田弥三郎は、関東大震災後の銀座のあちこちにミルクホールがあったことを記憶しています(池田弥三郎『たべもの歳時記』河出文庫1989年刊)。

 それは東京の人口が拡大してビジネス街に昼食需要が生まれたからですが、銀座、日本橋、神田といった古いビジネス街には、安く食事を提供するミルクホールが必要とされる、特別な理由があったようです。

 1936年の朝日新聞連載記事をまとめたサトウハチローの『僕の東京地図』に、当時の日本橋にミルクホールが増加している理由が書かれています。 

 “お店でめしを出さなくなった(中略)お店通いの連中が、アルコールなしに昼をすませるので、ミルクホールが多くなったのだという。”(サトウハチロー『僕の東京地図』春陽堂文庫出版1940年刊)

 日本橋などの古い商店では「番頭と小僧」が住み込みで働き、三食の食事は店の内部で店が提供していました。

 ところが路面電車が発達すると、番頭や小僧は店を出て、別の住居から通勤するようになります。

 すると店で食事を提供することもなくなり、食事を外食に頼るようになりますが、小僧たちはさほど給金も高くないので、安く食事ができるミルクホールが重宝されたというわけです。

ミルクホールの衰退

  しかしアメリカのバルチモア・デイリー・ランチも、日本のビジネス街のミルクホールも、やがて衰退していきました。

 冷たい牛乳やスナックではなく、温かい食事を安く提供するライバル店が数を増やしていったからです。

  バルチモア・デイリー・ランチは、現金を支払い牛乳やスナックを受け取った後に、トレイに商品を乗せて自分で席に運んで食べるという形式を採用した初期の店でしたが、同じ形式で温かい食事を提供したのが、マクドナルドなどのハンバーガーショップです。

 栄屋ミルクホールは「ミルクホール」の名前を残しつつも、ラーメンやカレーライスなどの温かい食事を提供することで、ライバルの中にあって埋没せず、今日まで営業を続けてきたのです。

参考:Restaurant-ing through history(アメリカのレストラン史研究サイト)

栄屋 ミルクホール
所在地:東京都千代田区神田多町2-2-2
アクセス:JR・東京メトロ銀座線 神田駅より徒歩2分

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