メイドカフェブームの原点は上野にあり!? 115年前の博覧会とは

明治時代末に銀座で巻き起こり、全国に広がっていったカフェーと女給のブーム。そのはじまりは1907(明治40)年に上野で開催された東京勧業博覧会にありました。いったい博覧会で何が起こったのか、そもそもなぜ、女性給仕がブームになったのか。洋食の大衆化を描いた著作『串かつの戦前史』(https://www.amazon.co.jp/dp/B093SJ24QX)において、従来のカフェー黎明史を全面的に書き直した、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。


夏目漱石の『虞美人草』とロシア料理店

夏目漱石 (画像:近代食文化研究会)



 1907(明治40)年に朝日新聞で発表された夏目漱石の小説『虞美人草(ぐびじんそう)』。気分が優れず勉強に身が入らないという登場人物・小野に対し、友人の浅井は、東京勧業博覧会のロシア料理店に行こうと誘います。

 “早く露西亜(ロシア)料理でも食うて、好うならんと”

 ロシア料理を食べると、気分が良くなるというのです。

 4ヶ月間の開催期間中の来場者数は約680万人。当時の東京府の人口約250万人の約2.5倍の人が訪れた、大人気の東京勧業博覧会。

東京勧業博覧会の会場だった上野公園 (画像:近代食文化研究会)

 欝気を晴らすために人気の博覧会に誘うのはわかりますが、ロシア料理で気分が良くなるとは、どういう意味なのでしょうか?

 実は博覧会のロシア料理店とは、現在の中高生程度の年齢の女子がロシア民族衣装を着て給仕する店。可愛い女の子給仕でも見て欝気を晴らせ、というのが友人の提案なのです。

女の子に会えなかった明治の若い男達

 “とにかくその頃の青年は、女性と口を利く機会が全くなかった”と証言するのは、1894(明治27)年生まれの作家・小島政二郎(『下谷生まれ』1970年刊)。

 高等教育は男女別々。美人女性店員を売りにしていた掛茶屋(麦湯)は風俗を乱すとして禁止。芸者遊びをする財力はない。そんな明治時代の若い男性にとって、若い女性に会える場所といえば、女性芸人が出演する寄席と、女性給仕がいる牛屋(牛鍋を出す店)しかなかったと小島政二郎は言います。

 後にカフェー評論で有名になる松崎天民も、かつての銀座の魅力ある女性といえば、牛屋の女性給仕だけだったと回想しています(『銀座』1927年刊)。

 東京勧業博覧会前にも「可否茶館」、一部のビヤホール、「台湾喫茶店」などに女性給仕がいましたが、ブームにはなっていませんでした。

 ところが大人気の東京勧業博覧会において、美人女性が給仕する店が複数オープン。女性に接触する機会が少なかった明治の若い男子の間に、会いに行けるアイドル=美人給仕ブームが起きたのです。

路面電車が生んだ美人給仕ブーム

 「博覧會と飲食店」(『食道楽 1907年7月号』)によると、ロシア料理店の他に美人給仕をおいていた店は2店舗。

 1つ目の店は萬世軒。エプロン姿という、後のカフェー裝束に通じる制服を着た美人給仕に加えて、イギリス人、フランス人美人給仕もいました。

 2つ目の店は精養軒の仮設店舗。「博覧會と飲食店」によると、給仕は博覧会随一の美少女ぞろいだったそうです。

 なぜこの時期に美人給仕がブームになったのか。その秘密は路面電車にありました。東京では1903年から急速に路面電車網が整備され、どこへいくのにも便利になったのです。それまでは徒歩と人力車、乗合馬車が主要な交通手段。博覧会のロシア料理店に行こうとしても、上野から距離が遠い場所からは、気軽には行けなかったのです。

 東京勧業博覧会が大盛況となったのも、東京の隅々から人々が路面電車に乗ってきたため。安価で便利な路面電車があってはじめて、若者たちは気軽に美人給仕に会いに行けたのです。

ビジネスチャンスを拡大させる精養軒

 美人給仕にビジネスチャンスを見いだした精養軒は、博覧会の仮設店舗を常設店に移行します。ビヤホールを買収し「新橋レストラント」に改名、博覧会の美少女給仕をそのまま移籍します。

 1908(明治41)年当時の新聞広告では、先頭で博覧会の美少女の存在をアピール。

1908年の新橋レストラント広告 (画像:近代食文化研究会)

 さらに1909(明治42)年には店名をカフェー・シンバシに変更。ここに日本初の「カフェー」の名を冠した、女性給仕をアピールする店が誕生します。

1909年のカフェー・シンバシ広告 イラストで女性給仕をアピール(画像:近代食文化研究会)

 一般に日本初のカフェーと言われているカフェー・プランタンはこの2年後、カフェー・シンバシから歩いて数分の近所に開店します。カフェー・プランタンはカフェー・シンバシの模倣店に過ぎなかったのです。

カフェーの王者 カフェー・ライオン誕生

 東京勧業博覧会やカフェー・シンバシの影響を受け、1910(明治43)年までには、早稲田や本郷の学生相手の西洋料理店も女性給仕を置くようになります(大庭柯公 (おおばかこう)『柯公全集 第一巻』1925年刊所収の「江戸より東京」より)。

 浅草の「よか楼」という西洋料理店においても、1908-09(明治41-42)年頃には美人給仕を置くようになっています(福島倹三『鋳掛屋の天秤棒』1958年刊)。

 そしてカフェー・シンバシの成功に手応えを感じた精養軒は、大胆な投資を行います。銀座のど真ん中、現在は三越百貨店や和光がある四つ角に、大規模カフェーを建設。カフェー・シンバシから美人給仕を移籍し、1911(明治44)年にカフェー・ライオンを開店しました。

カフェー・ライオンの所在地 現在の銀座プレイス(画像:近代食文化研究会 )

 開店直後の朝日新聞東京8月27日朝刊記事「カッフェー(一)」は、“電車の交叉點(こうさてん)は四辻の角とあつて、五つの入口から中を覗き込む連中の多い”と、カフェー・ライオンの周りに人だかりができている様子を報じています。

 当時の交通(路面電車)の要所、現在で言えば新宿渋谷の駅前一等地のような場所に、突然美少女カフェービルが建ったのですから、人々が群がるのも無理はありませんでした。こうしてカフェー・ライオンは有名になり、東京中に、そして日本全国にカフェーと女給のブームが広がっていったのです。

 東京勧業博覧会の仮設店舗→カフェー・シンバシ→カフェー・ライオン。カフェーと女給ブームの中心には、常に精養軒の姿があったのです。

かつてカフェー・ライオンがあった銀座プレイスには、カフェー・ライオンの後継企業である銀座ライオンが存在する。2018年撮影。(画像:近代食文化研究会)

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