忠犬ハチ公は何を食べていた?戦前の渋谷、銀座、浅草のわんわんグルメ

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忠犬ハチ公は何を食べていた?戦前の渋谷、銀座、浅草のわんわんグルメ

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帰らぬご主人をお迎えに、毎日渋谷駅に通っていた忠犬ハチ公。さぞや傷心の日々をおくっていた……と思いきや、渋谷駅周辺にはちょっとした楽しみもあったようです。ハチ公だけでなく、戦前の渋谷、銀座、浅草では、犬たちが自由に歩き回っていました。『牛丼の戦前史』と『焼鳥の戦前史』において屋台グルメと犬との関係を描いた、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

忠犬ハチ公の、ちょっとした楽しみ

忠犬ハチ公像(画像:近代食文化研究会)



 渋谷の待ち合わせ場所として有名な、忠犬ハチ公像。

 ご主人である上野英三郎が亡くなった後も、生前と同じく毎日渋谷駅にお迎えにでかけたハチ公。その姿に人々は感動し、ハチ公は銅像となって渋谷駅の象徴となりました。
 
 “午後四時過ぎると判でおしたようにハチは渋谷駅改札前に姿をみせた。帰らぬ博士を待ったのち改札口から離れると、市電終点に面した店舗裏、通称「渋谷駅前」と呼ばれていた横丁にたちよる。”

 ハチ公は今日もご主人に会えないことを悟ると、「渋谷駅前」横丁に立ち寄ったそうです。

 “此処には毎晩、一杯飲ませて焼き鳥や寿司、もつの串焼きを食わせる屋台が出ていた。”

 “ハチ公は、私の手もとに串だけ残るように、軽く肉とネギをくわえて、首をゆるく横に動かして食べたが、手なれたものだった”(加藤一郎編著『郷土渋谷の百年百話』1967年刊)

 渋谷の人々の中には、ハチ公の忠義をねぎらい、焼鳥をプレゼントする人もいたようです。

渋谷、銀座、浅草の焼鳥屋台と犬

 ハチ公のエピソードにみるように、当時は飼い犬であっても放し飼いにすることがありました。その関係で、渋谷、銀座、浅草のような繁華街において犬の姿を見かけるのは、珍しくなかったのです。

 そしてとりわけ犬たちが多く集まったのは、焼鳥屋台の周辺でした。

屋台の焼鳥(画像:近代食文化研究会)

 “屋台の脇にはいつも犬が五、六匹いて、焼鳥のお裾分けを待っている、いかにも明治らしい風景だった。”(野口孝一『明治の銀座職人話』1983年刊)

 これは明治時代の銀座の焼鳥屋台の風景。
 
 “これらの屋台店と、離すことの出来ないことは、夜分になると、たくさんの犬が集ってくることである。店が出揃う頃になれば、どこから集ってくるのか、たくさんの犬が寄ってくる。そして店から店へと、縫い合わせてゆくようにして喰い物をあさっている。焼鳥を口に頬張っていると、いつの間にか犬が足もとで上をみつめている。”(一瀬直行『浅草走馬燈』1986年刊所収の「ASAKUSA/1931年」 より )

 これは1931年の浅草の焼鳥屋台の風景です。

なぜ犬たちは焼鳥屋台に集まるのか?

 なぜ犬たちは数ある食べ物屋台の中でも、焼鳥屋台に多く集まったのか。それは、ハチ公のように客がプレゼントする以外にも、焼鳥を口にする機会があったからです。

 “屋台の下にはかならず犬が、人間が固くて噛み切れない肉を投つて(原文ママ)くれるのを待つてゐる。”(添田唖蝉坊『浅草底流記』1930年刊)

 焼鳥の肉の中には、人間がかみ切れない肉が混ざっていました。お客はかみ切れない肉を、足下の犬に与えたのです。

 “なぜか、外の燒鳥屋は鳥といつても鳥でない。とりがあつてもかたくて食えぬ。すてる、犬が食ふ。”(『実業の日本』1930年3月号掲載の「露天商人から新東京名物となつた燒鳥屋『江戸政』」)

 鶏肉を使う現在の焼鳥には、かみ切れない肉が刺さっていることはありません。ところが、大正時代から昭和時代までの東京の焼鳥は、豚の内臓肉を使うことが通例となっていました。

豚の内臓肉の焼鳥(画像:近代食文化研究会)

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 内臓肉の中には、かみ切れない肉も混ざっていました。そのような肉にあたった客は、犬たちに処理を依頼したのです。

犬がにらむので「ワンニラ」

 焼鳥の屋台の下では、いつも犬たちが待ち構えていて、客をじっと見つめていました。そのために、焼鳥には「ワンニラ」(ワンワンがにらむ食べ物)というあだ名が付きました。

 そして焼鳥以外にも、「ワンニラ」と呼ばれる屋台の食べ物がありました。

 “焼鳥、フライ屋、牛めし等々、稱(しょう)して以て「ワンニラ」と呼ぶ”(前田一 『続サラリーマン物語』1928年刊)

 ワンニラのひとつ=フライというのは現在の串かつのこと。串かつは明治時代末から大正初期の東京で生まれた屋台グルメです。

 “月島の商店街にはいつも屋台が出ていました。そこで肉フライを買って帰ろうとすると、かならずワンチャンが寄ってくるんですね。”(『芸術新潮』2003年12月号掲載の四方田犬彦「あの人のボナペティ第22回 吉本隆明の月島ソース料理」)

 思想家・吉本隆明の子供の頃の記録です。彼が少年期を過ごした東京月島では、内臓肉の串かつ(肉フライ)が名物でした。現在は、月島名物「レバーフライ」と改名しています。

月島名物「ひさご家阿部」のレバーフライ(画像:近代食文化研究会)

 “その時分の、若いはなし家の最大のぜいたくはてえと、「ワニラ」なんです。「ワニラ」てえのは、安い牛めしのことでして、俗に「カメチャブ」ともいいました。どうして「ワニラ」かてえと、屋台でたべている客の足の下で、「ワン公がにらんでいる」……そいつをつめて「ワニラ」ってんですが、誰がつけたかオツな名前であります。”(古今亭志ん生『びんぼう自慢』ちくま文庫2005年刊)

 落語の名人、 古今亭志ん生の若い頃の話です。牛めし(現在の牛丼)の屋台の下にも、犬が集っていました。

 なぜなら明治時代の牛めしには、現在の牛丼のような正肉ではなく、内臓肉やすじ肉が使用されていたからです。その中には、かみ切れない肉も入っていたのです。

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