歌舞伎劇場がないのになぜ「歌舞伎町」? その成立から現在までを振り返る

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歌舞伎劇場がないのになぜ「歌舞伎町」? その成立から現在までを振り返る

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鳴海侑

まち探訪家

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世界有数の歓楽街・新宿歌舞伎町。その成り立ちと変貌を遂げる様子を、まち探訪家の鳴海行人さんが解説します。

日本を代表する繁華街・歌舞伎町

 新宿・歌舞伎町は東京、そして日本を代表する繁華街のひとつです。とりわけ金曜日の夜になると多くの人でにぎわいます。そんな歌舞伎町はどのように生まれ、これからどのように変わっていくのでしょうか。

歌舞伎町一番街のアーチ(画像:写真AC)



 みなさん、「歌舞伎町」というと、どんなイメージを思い浮かべるでしょうか。例えば新宿東宝ビルの「ゴジラヘッド」や「歌舞伎町一番街」とかかれたアーチ、多くの飲食店の看板群、ライブハウス「LOFT」……といった、さまざまなものが集積している「にぎやかで楽しげな場所」というイメージがひとつあると思います。

 そしてもうひとつ、建ち並ぶ雑居ビルがつくりだす景観の猥雑さ、しつこいキャッチやヤクザの存在といったイメージから、「治安が悪い場所」という印象もあると思います。こうした歌舞伎町のイメージの形成はどのようにされてきたのでしょうか。実は歴史をひもとくとわかってきます。

 歌舞伎町はもともと、健全な歓楽街を志向して作られた街でした。歌舞伎町近辺は新宿の外れで、どちらかというと貧しい人が暮らしている地域でした。それが第二次世界大戦中の空襲で焼け野原になりました。そのとき、この地域で最も多くの土地を借りていた食料品製造業者の鈴木喜兵衛(すずき きへい)がにぎやかな街にしようと立ち上がったのです。

歌舞伎町と呼ばれる理由は?

 鈴木は、東は現在の区役所通り、西は現在の西武新宿駅、北は現在の新宿東宝ビル(ゴジラヘッドのあるビル)、南は靖国通りに囲まれた一帯を「道義的繁華街」とする計画を立てていました。「道義的繁華街」とは、映画館や演芸場、ダンスホールなどを中心にした街づくりで人を呼び、周辺の商店も潤う健康的で文化的なにぎやかな街にしようというものです。

平日も盛り上がりを見せる歌舞伎町(画像:写真AC)



 鈴木はまず地主を説得し、続いて東京都で戦後の復興計画を担当していた石川栄燿(いしかわ ひであき)のところへ計画を持っていきます。すると、「広場」や「市民のふれあいの場」が必要だという持論を持つ石川は大いにこの計画に興味を持ち、歌舞伎町の都市計画を策定します。

 鈴木と石川は、新宿東宝ビル前の広い街路やその西にある広場(シネシティ広場)を設けるなど広場を意識した街づくりを行い、街ににぎわいをもたらそうとしました。さらに新宿東宝ビルのところに歌舞伎劇場「菊座」を設けることにしました。そこで街につけられた名前が「歌舞伎町」という新しい名前でした。

 しかし、この都市計画のうち、広場はできたものの、菊座をはじめとする建物の建設は実現することはありませんでした。実は当時、資材不足などの理由により政府から建築規制が相次いで発令され、建物の建設ができなくなってしまったのです。その結果、歌舞伎劇場の計画はなくなってしまいます。

道義的繁華街から風俗街へ

 鈴木はそれでも新たな街のシンボルを作るためにさまざまなことを考えます。一時期は今のミラノ座跡地にギャンブル場を作ろうという計画も立てたほどでした。

居酒屋が多い歌舞伎町(画像:写真AC)



 こうした状況の鈴木にアドバイスを与えたのは東急グループの祖、五島慶太(ごとう けいた)です。

 五島のアドバイスで、鈴木は1950(昭和25)年に「東京文化産業博覧会」を開催します。興行的には大失敗でしたが、パビリオンとして劇場などに転用できる大きな建物を建てることに成功しました。そして、このイベントでようやく歌舞伎町が「新宿」の一部としてみなされるようになりました。

 その後も鈴木は、歌舞伎町への企業誘致を進めていきます。大きな目的は新宿二丁目からゴールデン街に移ってきた娼婦(しょうふ)をなんとか歌舞伎町に入れさせないようにするため。ひいては歌舞伎町が、再びスラム街になることを恐れたためでした。

 1952(昭和27)年には都営バスの車庫跡地を西武鉄道の駅にする形で西武新宿駅が誕生し、現在のミラノ座跡地に東急グループ各社出資の下、同年に「東京スケートリンク」が開業。その後1956(昭和31)年に「東急文化会館」が開業しました。また映画館「ミラノ座」や「新宿コマ劇場」ができたのもこの頃です。終戦から10年たって、ようやく鈴木喜兵衛の目指した「道義的繁華街」が生まれたのです。

 では、この「道義的繁華街」に性風俗店が入ってきたのはいつからでしょうか。

 それは1980年代のこと。1985(昭和60)年の新風営法の施行により、ゲームセンターやディスコが風俗営業法の範囲に入り、許可制となった上に、深夜営業が規制されたのです。その結果、規制を受けることとなった店舗の売り上げが落ち、撤退。その代わりに売り上げがより多い性風俗店が大幅に増えることになったのです。

歌舞伎町ルネッサンスで生まれ変わる繁華街

 しかし、こうした街の姿の変化は「道義的繁華街」とはかけ離れたものでした。そこで、石原慎太郎・東京都知事(当時)は2003(平成15)年頃から歌舞伎町浄化作戦を指揮しました。主に治安対策や性風俗店の取り締まりが行われ、一定の効果を挙げた一方、歌舞伎町の熱気がやや失われたという声も上がります。

不夜城という趣のある歌舞伎町(画像:写真AC)



 そこで、2005(平成17)年からは新宿区や地元商店街、民間企業、警察、消防、NPOなどが一体となった取り組み「歌舞伎町ルネッサンス」が始まりました。「大衆文化・娯楽の企画、制作、消費の拠点」を将来のビジョンとし、再び鈴木喜兵衛の目指した街の姿にしようという取り組みで、路上清掃や違法な看板の撤去、パトロールなどが定期的に行われています。

 この歌舞伎町ルネッサンスに合わせるように、新宿区からも「歌舞伎町まちづくり誘導方針」が定められ、現在はこれに沿った形で再開発が進められています。

 まず、新宿コマ劇場が2008(平成20)年に閉館し、2015年にゴジラヘッドのある新宿東宝ビルとして生まれ変わり、日本人のみならず訪日外国人も含め多くの人々の注目を浴びています。

 そして現在、東急ミラノ座の跡地の再開発が予定されています。計画では40階建ての建物に高速バスターミナルや映画館、ホテル、劇場、ライブホールを設け、隣接地にあるシネシティ広場から導線を設置し、歌舞伎町の中でスムーズな人の流れを作ることを狙います。

 また高速バス発着場を作ることで、国内外の人々が歌舞伎町にアクセスしやすくします。着工は今年の8月、竣工は2022年8月を予定しており、完成すれば48階建て・高さ225メートルの新たな歌舞伎町のランドマークが完成することになります。

 また、ミラノ座跡地に隣接する西武新宿駅は一足先に駅のリニューアルを行いました。コンコースには訪日外国人向け観光案内所を設置、人気の観光地である川越方面への送客を強化しています。また、駅の上にある新宿プリンスホテルは訪日外国人観光客の利用率が高く、宿泊客の約8割にも達するそうで、歌舞伎町と川越を組み合わせて訪日外国人の回遊性の強化を狙います。

歌舞伎町のこれから

 今後、歌舞伎町は新宿東宝ビルや東急の作る新しいビルといったランドマークの下、エンターテインメント関連産業を活性化させていきます。そして「道義的繁華街」として訪日外国人も含めた、多くの人々を集めるにぎやかな街としていくことを目標としています。

治安の悪さも特徴のひとつだった歌舞伎町(画像:写真AC)



 ただ、歌舞伎町は「治安が悪い」というイメージを含め、その地名と活気を多くの人に伝えてきました。そこから治安の悪さだけを取り除くのは一筋縄ではいきません。そこでエンターテインメント施設を中心に、街にあるさまざまな産業をうまく同居させ、バランスをとって、街のエネルギーを落とさないようにすることが望まれます。

 日本を代表する歓楽街、歌舞伎町。街にあるエネルギーと新たなランドマークを上手く生かすことで、日本だけではなく、世界各地から人を呼び寄せる街であり続けることに期待したいものです。

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