ニコライ堂が見えなくなった学生街「御茶ノ水」、かつての原風景を求めてさまよい歩く

  • 未分類
ニコライ堂が見えなくなった学生街「御茶ノ水」、かつての原風景を求めてさまよい歩く

\ この記事を書いた人 /

増淵敏之のプロフィール画像

増淵敏之

法政大学大学院政策創造研究科教授

ライターページへ

法政大学大学院教授の増淵敏之さんが、自身の青春を過ごした街・御茶ノ水を歩きます。45年前と違う、その風景とは。

大きく変貌した学生街

 東京には戦前から、三田(港区)や本郷(文京区)、早稲田(新宿区)、御茶ノ水(千代田区)をはじめとする、大学を中心にした学生街が形成されています。

御茶ノ水にたたずむニコライ堂(画像:写真AC)



 東京大学のある本郷はまだ学生街の名残を残しており、早稲田大学のある早稲田に至っては都内に残る最後の学生街と言えるかもしません。

 しかし慶応大学のある三田はもはやオフィス街といっても過言ではなく、日吉キャンパス(横浜市)の周辺にそのたたずまいが残っている程度です。

 学生街は、全体的に大きく変貌しているのです。

 学生街には書店や飲食店、喫茶店、アパート、娯楽施設、不動産屋などが集中しています。街の主体はあくまでも学生のため、筆者(増淵敏之。法政大学大学院教授)と同年代の人たちはガロのヒット曲『学生街の喫茶店』(1972年発表)を思い出す人も少なくないでしょう。

 かつては学生街を起点に、多くのポピュラー音楽や演劇、映画、小説などのカルチャーやムーブメントも生まれました。

ムックを片手に歩く

 筆者は1976(昭和51)年に明治大学に入学し、最初の2年間を和泉キャンパス(杉並区永福)で過ごしました。その後、御茶ノ水の駿河台キャンパスに。

御茶ノ水駅から水道橋駅にかけての学生街の様子(画像:(C)Google)

 JR御茶ノ水駅から神保町、三崎町のエリアは当時、大げさにいうと「街全体がキャンパス」という雰囲気がしたものです。明治大学の狭いキャンパスと界隈の街には「境界線」がありませんでした。

 手元に『あのころangle 街と地図の大特集1979 新宿・池袋・吉祥寺・中央線沿線編』(2018年)というムックがあります。これは1979(昭和54)年に主婦と生活社(中央区京橋)が刊行した『別冊angle』の復刻版です。

 この本を手がかりに、JR御茶ノ水駅界隈を少し歩いてみましょう。

当時訪れた喫茶店はほぼ残っていない

 まずJR御茶ノ水駅の聖橋口(ひじりばしぐち)を出て右折します。少し歩くと、以前と比べてすっかり綺麗になった喫茶店「穂高」があります。

喫茶店「穂高」の外観(画像:(C)Google)



 この店はかつてから、山人たちが集まる店として有名でした。この場所から駅の御茶ノ水橋口までの道沿いで、残っている喫茶店は「穂高」だけ。画材で有名な「レモン画翠」は当時、4~5階が喫茶フロアだったような記憶があります。しかし現在は喫茶営業を行っていないようです。

 1978(昭和53)年にリリースされた、さだまさしのアルバム『私花集』の中に収録されていた曲「檸檬(れもん)」は、梶井基次郎の小説『檸檬』(1925年)をモチーフにした作品で、主人公が聖橋の上から檸檬を放るという行が歌詞の中にありました。

「レモン」の喫茶フロアの窓からは、JR御茶ノ水駅や聖橋が見えました。なお、マロニエ通り(とちの木通り)には「レモン画翠」の営むイタリアンレストラン「トラットリア レモン」が健在です。

 学生時代に友人たちとよく行った「虎」はもうありません。「Lui」もこの通りにあったでしょうか。

かつて、高層ビルの少なかった御茶ノ水

 現在と異なり、明治大学の学生は地方出身者が多かったため、大半は中央線沿線に住んでいました。大学に集まっては、JR御茶ノ水駅の界隈の喫茶店で時間を潰すのが常でした。

 御茶ノ水橋口近くにあった「丘」も、マロニエ通りの「マロニエ」も無くなりました。御茶ノ水橋口から渡った先の路地にある画廊喫茶「ミロ」はまだ健在のようですが、あの頃は御茶ノ水界隈も高層ビルはなく、ニコライ堂(東京復活大聖堂)も現在より視野に入る機会が多かったような気がします。

画像手前中央の交差点付近が御茶ノ水橋口(画像:(C)Google)

 当時は中央大学もまだ八王子に移転途中で、日本大学理工学部・歯学部の学生などもこの界隈を彩っていました。

戦前からのドーム型の屋根が特徴的な記念館

 御茶ノ水橋口から神保町方面に下っていく坂は「文坂(ふみざか)」といいますが、現在は「明大通り」という別称が付いています。しかしこの界隈でもっとも変わったのは明治大学そのものです。

明治大学駿河台キャンパスの中心となるリバティタワー(画像:写真AC)



 筆者が学生だった頃は現在の「リバティタワー」の前身で、戦前からのドーム型の屋根が特徴的な記念館が威容を誇っていました。サークル等の部室は現在の大学会館棟のところにあった木造の4号館にありました。

 生協は現在の「グローバルフロント」の手前の角にあり、現在の「アカデミーコモン」の場所には大学院棟があり、その隣には駿河台ホテルがありました。その後、生協の入っていた建物とホテルを交換して現在の12号館が建ちました。

 学生時代はレストランチェーン「キッチンジロー」や天丼店「いもや」、そして点在していた雀荘にお世話になっていました。

店舗の減少の背景にあるさまざまな要因

 しかしかつての店舗や施設がこれだけ姿を消したのは、界隈の再開発に加えて、ウェブやスマホなどによって学生のコミュニケーションの形が大きく変わったことがひとつの原因でしょうか。

明大通りの様子(画像:(C)Google)

 またアルバイトやインターンシップで忙しかったり、サークルや趣味で忙しかったりと生活のパターンも学生個々で違いますし、趣味の多様化も原因のひとつなのかもしれません。また学生の気質も、当時とは相当違うように思えます。

 どうやら御茶ノ水は学生街の空気感を残しつつ、一般化した街に変貌しているようです。界隈は古書店街、楽器店街として広範に集客しており、オフィスビルも増えて、学生だけの街ではなくなっています。

 Tシャツとジーンズと、そして長髪の学生たちで賑わっていたあの頃が懐かしく思い出されます。

関連記事