麻布・広尾・目黒に「高級住宅街」「下町」の真逆イメージが両方根付いた歴史的経緯(中編)
江戸城から離れた例外的「御府内」 麻布、広尾、目黒という主に日比谷線沿線の地名を聞くと、芸能人や著名人が多く住み、住みたいが手の届かない「山の手」の「お屋敷町」、「高級住宅街」というイメージがあります。実際、沿線別の路線地価は極めて高くなっています。 他方で、地元民や年配者などは全く対極のイメージも持っています。意外ですが、「原っぱ」、「庶民層」、「ブルーワーカー」などの印象です。この地域の1960年代は、映画『ALWAYS三丁目の夕日』の舞台に近いかもしれません。 この二重性をひも解いてみようとするのが本稿の狙いです。3回続きの第2回は、江戸の町の発展という側面から。 ※ ※ ※ 目黒は、江戸城から離れていたにも関わらず、町奉行の支配下に置かれた例外的な「御府内」でした。 東京屈指の高級住宅街というイメージもある、目黒の歴史とは?(画像:写真AC) それは、現在でも知られる目黒川の桜見の名勝地であるとともに、落語の「目黒のさんま」で知られる通り、将軍の鷹(たか)狩り地、つまり「余暇」を楽しむ地であったからです。 従って、この地域は、武家地でも町人地でもなく、野原であり原野として、禁猟地として保護されていたようです。目黒不動尊のある目黒は江戸の守護神としての位置づけだけでなく、注目の地域でした。 麻布、広尾、目黒方面の共通点は、この地域の古層には江戸城から見て「裏鬼門」であることの影響があるということです。 身分によって住む場所が区分された身分によって住む場所が区分された「四神相応」も「江戸五色不動」も、天海の影響も歴史的証拠のないものです。しかし、民衆レベルでは、方角、縁などの宗教的な観念がさまざまな影響を及ばしたことは疑い得ないでしょう。 江戸は、幕府が切り開いた土地であり、封建制度のもとで土地の所有県はすべて幕府にあり、私有制ではありませんでした。 従って、土地利用は、幕府が「町割り」によって決め、「武家地」と「町人地」を分け、庶民は、町人地の一部の長屋に住むということが基本でした。 江戸城の西、武蔵野台地を構成する麹町台地にある麹町・番町(千代田区)は武家地で、しかも徳川の家臣が居住しました。富裕層や階層が高い層が住む地域の意味を持つ「山の手」の第1号は、麹町・番町でしょう。 四谷あたりになると町人地になり、長屋がありました。 そして、現在の国会(千代田区永田町)周辺は武家屋敷で、しかも徳川譜代大名であり、紀伊藩・尾張藩・井伊藩の藩邸跡です。 現在の中央区日本橋あたりは、武蔵野台を下った低地であり、町人地であり、大店が営業し、「ぼって振り」が仕入れて、売り歩く下町でした。その奥に長屋がありました。 このように身分によって住む場所が区分されていました。区分の原則は、台地は武家地が多く、低地は町人地が多いということになりました。 麻布は、人口が少なく、武家地、町人地、そして寺地が混在していました。武家地も、東北、中国、九州などの外様(とざま)の武家屋敷で、しかし、米や物資を保管するための広大な土地を有する倉庫のようなところでした。 麻布よりも外にある広尾や目黒になると、基本は「原っぱ」、「鷹狩り場」、「寺地」でした。 富裕層の住む「山の手」富裕層の住む「山の手」 麻布、広尾、目黒方面にはふたつの共通性があることを確認しました。このことが、この地域の持つ「二重性」につながっています。 ひとつは、富裕層の住む山の手の印象です。 バブル期の少し前を象徴する『なんとなく、クリスタル』(田中康夫)には、天現寺(港区南麻布)にあったカフェ・ペーパームーンからスタートし、広尾明治屋(渋谷区広尾)を抜けて、当時のブランドやストアを散策する裕福な「断層の世代」(1950年代生まれ)の様子が紹介され、当時の世相が反映されています。 1981年1月に刊行された、田中康夫氏の『なんとなく、クリスタル』(画像:河出書房新社) ひとつ上の団塊の世代(1940年代生まれ)はイタリアレストランのキャンティやロアビルなどがある港区六本木が人気だったようです。 この方面のひとつの顔は、先端的な、おしゃれな、高級な山の手というものです。六本木も東京15区分及び35区分の麻布区に属していました。 このイメージは、広尾、白金、恵比寿、代官山、目黒と西へと延伸しています。 2004(平成16)年の税務署の納税では日本で高額納税者(年間1,000万円以上の所得税納付)がもっとも多いのは、六本木ヒルズレジデンスのある六本木6丁目で人口1400人の10%以上と公表されていました(現在は非公表)。 年収で約3000万円と推定され、この傾向は現在も変わらないようです。それは多くの著名人が居住していることからもうかがえます。また、ドイツ、フランスなどの大使館が多いことでも知られます。 寺の多い、原っぱ、庶民層、工場寺の多い、原っぱ、庶民層、工場 もうひとつの印象は、まったく対照的です。寺の多さ、原っぱ、庶民層、工場などの印象です。 中村吉右衛門主演の池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』というドラマがありました。江戸時代の火付盗賊改方長官・長谷川平蔵を主人公とする時代劇です。 この時代劇は時代考証に優れ、江戸の世相をよく反映しています。池波正太郎は、師事した長谷川伸の後継者として江戸時代の理解が深い人物。そのシリーズに麻布をテーマにしたものが2話あります。 「麻布一本松」(暗闇坂をあがった短い坂)と「麻布ねずみ坂」(狸穴坂の隣に細い坂)という話です。両者とも現存します。 このドラマでの描写を見ていると当時の麻布がどのようなところだったのかが、うかがい知れます。 平蔵の指示で見回りを命じられた若手同心が、日本橋などの盛り場とは違い「遊ぶ場所も盛り場もない」と嫌がるところが出てきます。また、「麻布ねずみ坂」は野原のなかの盗人の隠れ家として描かれています。 古い川柳には、「葬式は山谷と聞いておやじ行き 葬式は麻布と聞いて人だのみ」と詠まれています。 他にも平岩弓枝の『御宿かわせみ』、永井荷風の『日和下駄』でも麻布が登場しますが、お寺ばかりで貧しい人々が住む地域として描かれています。 広尾の由来は、「広大な原っぱ」広尾の由来は、「広大な原っぱ」 武家のお屋敷の印象もありますが、江戸時代の裏鬼門ですので、武家の屋敷はあっても、外様の下屋敷ばかり。 下屋敷は大きいものの藩主は住まず、普段は米や物資を保存する蔵屋敷として利用されていました。 有栖川宮記念公園(港区南麻布5)は岩手南部藩の下屋敷、韓国大使館(同区南麻布1)は仙台伊達藩の松平陸奥守の下屋敷でした。お屋敷といっても明治維新後の新政府の要人邸が転用されたことによるもののようです。 ちなみに、広尾の地名は、広大な「原っぱ」が由来です。また、麻布は、江戸の大火に備えて、東の木場に対して、南西の材木置き場として知られていました。 新宿御苑を源流とする古川・渋谷川が流域でした。現在は暗渠(あんきょ)となり、天現寺の古川につながっていた笄川(こうがいがわ、港区~渋谷区)に架かっていた橋が「広尾橋」の由来でしょう。
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