東京・北千住になぜか「氷川神社」が密集している理由
2020年4月12日
知る!TOKYO東京の穴場スポットとして近年注目を集める北千住。そんな北千住周辺には、なぜか氷川神社が多くあります。いったいなぜでしょうか。フリーライターで古道研究家の荻窪圭さんが解説します。
北千住駅周辺になぜか五つも
以前、千住かいわい(駅でいうと北千住)を調べていたとき、「あれ? この辺だけで氷川神社が五つもある」とびっくりしました。なぜここは氷川神社ばかりなのだろう、と思ったわけです。
調べるとすごいですよ。
ぱっとみるだけで、千住本氷川神社(足立区千住3)、千住氷川神社(同区千住4)、大川町氷川神社(同区千住大川町)、仲町氷川神社(同区千住仲町)と四つあります。
さらに、千住で一番古くて大きな千住神社(同区千住宮元町)がありますが、これはもともと「稲荷神社」と「氷川神社」が並んで「二つ森」と呼ばれていたのですが、大正時代にふたつがひとつになり「千住神社」と名前を変えたのです。

千住本氷川神社と千住氷川神社って、名前が似すぎていてわけわかりませんよね。でも千住の歴史をひもとくと、なぜそうなったのかが見えてきます。
街道沿いでにぎわった千住宿
江戸時代、千住を五街道のうちふたつ(日光街道と奥州街道。この2本は途中まで同じルートでした)が通ってました。さらに千住を経由して、茨城県の水戸へつながる水戸街道や茨城県の下妻に通じる下妻街道もありました。江戸と茨城や奥州をつなぐ重要な街道だったのですね。
よって千住宿は大変にぎわいました。
本陣がある3丁目を境に、千住1丁目から5丁目まで町割りがなされ、それでは足りなくなり、南に「掃部宿(かもんじゅく)」が開かれ、それぞれに氷川神社が鎮座したのです。

千住1丁目と2丁目は千住神社。前身となる稲荷神社は平安時代の926(延長4)年、氷川神社は鎌倉時代の1279(弘安2)年に勧請(かんじょう。神仏の分身、分霊を他の地に移してまつること)されたといいます。
平安時代、奥州へ向かう源義家がここで陣を敷いたという伝説があります。北千住駅からは少し離れますが、ぜひとも訪問したいところです。江戸時代の地誌、新編武蔵風土記稿には稲荷と氷川が1丁目の鎮守とありますが、2丁目もこちらでしょう。

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