きれいな飲み水を求めて 武士・町人を支えた江戸初期の「上水設備」を知っていますか
江戸の町を支えた水道。その歴史について、文筆家の広岡祐さんがその歴史について解説します。城下町・江戸の形成 世界有数の規模を誇った江戸の街。整った町並みは幕末に来訪した外国人を驚嘆させました。急速に発展していった都市の姿を、ライフラインの整備から振り返ってみましょう。 ※ ※ ※ 1590(天正18)年、徳川家康が関東に入国します。台地のへりに建っていた当時の江戸城は板葺(ぶ)きの館で、石垣も備わっていなかったといいます。城は日比谷入江の海に面し、その東側には江戸前島と呼ばれる半島が細長く伸びていました。現在、オフィスビルが立ち並ぶ丸の内から日比谷方面にかけては内海だったのです。 徳川家康は征夷大将軍となったのち、諸大名を動員して大土木工事に取り組みます。江戸幕府による築城や、道路・橋梁などの整備は「天下普請」とよばれましたが、江戸城の天下普請は、日本最大の城下町建設をともなうものでした。 江戸城の築城とともに、物流確保のための運河の開削、神田山の切り崩しによる日比谷入江と砂州だった江戸前島(豊島洲崎)の埋め立てなど、工事は多岐にわたりました。埋め立てによって広がった土地には家臣の屋敷地が設けられ、神田から江戸前島の日本橋、銀座にかけては町人たちの居住地が完成、こちらは江戸の下町として繁栄していくことになります。 『正保年中江戸絵図』より、1600年代半ばの江戸の様子。城の縄張りと町割りが完成し、外堀である神田川は現在のルートになっている(画像:国立公文書館 デジタルアーカイブ) 日比谷入江に注いでいた平川(のちの神田川)の流路は東へ変更され、本郷と駿河台に新ルートが開削されて御茶ノ水の渓谷が誕生しました。わたしたちがJRの中央線や総武線の車窓から見下ろしている風景は、実は人工のものだったのです。 きれいな飲み水を求めてきれいな飲み水を求めて 城下町の建設にあたって大きな課題となったのが、飲料水の確保でした。 東京の地形は都心部から西へ広がる武蔵野台地と、東側の海岸平野の部分に分かれます。海沿いの低地では井戸水に塩分が入り、飲み水には適していなかったのです。川の水もやはり塩を含み、日照りが続くとすぐに水が濁ってしまいました。市中では「水売り」が繁盛したといいます。 お堀や溜(ため)池の水も重要な飲料水となりました。なかでも江戸城南側にあった赤坂の溜池は、城の外堀も兼ねた上水源で、江戸の西南部に給水していました。江戸城の外堀は谷の地形を利用し、小河川の流れや湧水を導いて建設したものです。 現在の赤坂溜池交差点付近。周囲を見回すと低地であることがわかる(画像:広岡祐) この溜池は長さ1.5km近い細長い池で、幅は広い部分で100m以上の規模がありました。のちに水量は減少していきますが、明治の初期まで水をたたえた風景を見ることができたそうです。 神田上水の開設 武蔵野台地の東端部、標高約50mの等高線が走る地点には多くの湧水があり、豊富な湧き水が、井の頭池(三鷹市)のほか、善福寺池(杉並区)、石神井公園の三宝寺池(練馬区)などを形成しています。 江戸の水道のなかでもっとも初期につくられたのが、神田川の水を利用した神田上水です。神田上水の原型となった小石川上水が完成したのは1590(天正18)年。神田川の水源は井の頭池で、善福寺川・井草川などの水を受け入れ、江戸西郊の十六カ村を経由して五里(19.6km)で目白下・関口の大洗堰に至ります。 江戸川公園に再現された関口大洗堰。このあたりの神田川はかつて江戸川とよばれていた(画像:広岡祐) 大洗堰では流路がふたつに分かれました。洗堰でせき止めた水は神田上水へと分流し、残りは堰を越えて神田川に流れ落ちます。 現在の巻石通りが上水のルートです。ゆるやかにカーブを描きながら、神田上水は小日向水道町から水戸藩上屋敷(小石川後楽園と東京ドーム付近)の敷地内を通って南に曲がり、神田川を懸樋(かけひ)で横断して内神田に入ります。この懸樋が水道橋の町名の由来となりました。 神田上水は江戸城や武家地に給水をしたのち下町に向かいました。水道は地下に潜り、木樋を通して市中に分配されていきます。この水道網は江戸の人口増加とともに拡張され、最終的には70km近い流路をもっていたそうです。 神田上水の水源へ神田上水の水源へ 神田上水の水源、そして神田川の源流である井の頭池を散歩してみました、吉祥寺の人気スポット・恩賜井の頭公園は、1917(大正6)年、宮内省が管理していた御料地が東京市に下賜されて誕生したものです。池の東端が神田川のスタート地点です。 現在の井の頭池は湧水が著しく減少し、地下水をポンプでくみ上げて水位を保っています。近年、池の水を抜く「かいぼり」をおこない話題になりました。絶滅危惧種といわれていた水草が復活、緑色に濁っていた水の透明度が以前とは比較にならないくらいアップしました。 美しさを取り戻した井の頭池(画像:広岡祐) 神田上水のもうひとつの水源、善福寺池も訪ねてみました。ここは上の池、下の池とふたつにわかれており、1961(昭和36)年に都立善福寺公園として整備されています。 上の池に面した斜面には、遅の井(おそのい)とよばれる湧水跡があります。奥州征伐に向かう源頼朝が飲み水を求めてこの地で土を掘り、水が湧くのを「今や遅し」と待ったところから命名されたそうです。池の西側は高台で、台地の地下水がこの池をつくりあげていることを実感できます。 玉川上水の完成 江戸の発展とともに人口は急激に増加し、飲料水の不足が問題となりました。江戸城西側の四谷・麹町、そして赤坂・青山周辺の武家地や町人の居住地は拡大したことによって、神田上水の給水能力が大幅に不足してきたのです。 幕府は武蔵野台地の湧水に頼るだけでなく、水量が豊かな多摩川の水を直接江戸に水を引く計画を立てました。1653(承応2)年4月に工事が開始、この年の11月には羽村から四谷大木戸までを開削しています。台地の尾根に刻んだ玉川上水の水路は総延長42.7km、高低差92m。大工事にもかかわらず、着工から7か月という短期間で完成していることに驚かされます。 江戸幕府のスタートから半世紀後に完成したこの設備は、1901(明治34)年6月まで使われていました。近代的な水道設備が完成するまで、玉川上水は江戸庶民の飲み水として、そして武蔵野開拓の農業用水として大きな役割をはたしていくことになるのです。 水道碑記(すいどうのいしぶみのき) 四谷大木戸跡に置かれた玉川上水開削の記念碑。1895(明治28)年完成。(画像:広岡祐) 玉川上水の完成後、その分水である青山上水、三田上水、千川上水が、本所・深川地区には元荒川からの水をひいた亀有上水が開設されます。これらは江戸の六上水とよばれましたが、のちに神田・玉川の両上水を残して廃止され、農業用水などに使用されました。 武蔵野台地の東端部には、現在も湧水やその痕跡を残すスポットが数多くあります。また、江戸の上水の名残も思わぬところで発見できます。江戸時代のライフラインの痕跡をたどって、21世紀の東京を散歩してみませんか。
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