江戸の町に築かれた「領域展開」 人気作『呪術廻戦』にも通じる歴史的“結界”の痕跡とは

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江戸の町に築かれた「領域展開」 人気作『呪術廻戦』にも通じる歴史的“結界”の痕跡とは

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マサト

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2021年のヒット作『呪術廻戦』。その中で描かれる「領域展開」という技は、かつて江戸の町を築く際に用いられた考え方にも通じるものがあります。今も東京の街に残る痕跡をたどります。

江戸に存在した、呪術的な「領域」

 人間の負の感情から生まれる「呪い」を巡る戦いを描いた、テレビアニメ『呪術廻戦』。

 芥見下々(あくたみ げげ)氏による原作漫画は2018年から『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて連載中で、2021年12月24日(金)から劇場版アニメが公開されるなど、今最も高い人気を誇る作品のひとつです。

『呪術廻戦1』(画像:集英社、芥見下々)



 本作のキャラクターが使う技に「領域展開」というものがあります。

 ざっくり言うと、自分に有利な結界を作り出し、相手を閉じ込める技です。2021年上半期の「ティーンが選ぶ流行(はや)ったコトバ」ランキングで4位にランクインするなど、若い世代を中心に注目を集めたキーワードです(※)。

※2021年5月、マイナビティーンズラボが13~19歳の女性778人を対象に実施した複数選択式アンケートの調査結果。

 同作キャラクターが使うこのような「結界術」は、実は東京都内のいろいろなスポットと関係があります。というのも、江戸の町づくりの際、呪術的な力に守られた空間の設計が意図されていたからです。

江戸は神々に囲まれた領域だった?

 そもそも、なぜ幕府は江戸に開かれることとなったのでしょうか。

 現在の東京といえば、言わずと知れた大都会。しかし徳川家康が入るまで、江戸は湿地だらけの未開の土地でした。

 そんな江戸が政治の中心地に採用された背景にあったのは、天海(てんかい)という僧の献策でした。

辻岡文助・編『徳川家康一代記 下』明治14年(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)



 天海は家康から3代にわたって将軍に仕え、ブレーンとして活躍した天台宗の僧侶です。家康から厚く信頼され、政治における宗教的な部分に携わりました。

 幕府が開かれるにあたって、天海は関東各地の地相をチェックします。そして江戸こそが、幕府の場所にふさわしいと結論づけたのです。

 天海が江戸を選んだ根拠となったのが、風水における「四神相応(しじんそうおう)」の考えでした。

 四神とは、青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)、玄武(げんぶ)という4体の神のこと。そして、東に青龍が宿る川、西に白虎が宿る道、南に朱雀が宿る水面、北に玄武が宿る山がある土地こそが、四神相応の地、つまりよい土地とされています。

 江戸の場合、東に平川、西に東海道、南に江戸湾、北に富士山が見える麹町台地がありました。つまり四神相応の条件を満たす場所だったのです。

 こうして、四神に護られる「領域」のなかに、政治の中心地が置かれることとなりました。

三つの寺社による鬼門封じ

 江戸に幕府が開かれることが決まると、天海は周辺の要所――具体的には江戸城の北東と南西を押さえにかかります。

 陰陽道において、北東は「鬼門」と呼ばれ、邪気が入ってくる方角とされていました。さらに南西は、その邪気の通り道となる「裏鬼門」と考えられていたのです。

 京都の平安京の場合、鬼門である北東には比叡山延暦寺、裏鬼門である南西には石清水八幡宮が存在していました。

 延暦寺で学んだこともあって、天海は鬼門と裏鬼門を封じることの重要性を知っていたのでしょう。江戸でも同様に、該当する場所に寺社を配置することになります。

 こうして 1625(寛永2)年、江戸城の北東に建立されたのが上野の寛永寺です。

台東区上野桜木にある寛永寺(画像:写真AC)



 寛永寺の建立は、

・「東の比叡山」を意味する「東叡山」を寺号とする
・琵琶湖(滋賀県)に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)にならい、不忍池に中ノ島と弁天堂を造る

など、延暦寺を強く意識したものとなりました。

 そして寛永寺とともに鬼門封じの役割を与えられたのが、神田明神(千代田区外神田)です。もともと神田明神は、現在の大手町付近にあったのですが、1616(元和2)年、現在の場所へ移されました。

 また浅草寺(台東区浅草)も同様、鬼門封じの役割を担うこととなりました。

ふたつの寺社による裏鬼門封じ

 一方、江戸城の南西、つまり裏鬼門を封じる役割を与えられたのは、ふたつの寺社でした。

 ひとつは増上寺(港区芝公園)です。増上寺は安土桃山時代、徳川家康が関東の地を治めるようになって間もない1590(天正18)年、徳川家の菩提寺に選ばれたお寺です。1598(慶長3)年、現在の地に移されました。

港区芝公園にある増上寺(画像:写真AC)



 もうひとつの場所が、日枝神社(千代田区永田町)です。日枝神社は江戸時代、「山王社(さんのうしゃ)」と呼ばれ、徳川将軍家より江戸鎮守の神とされていました。現在の土地に落ち着いたのは、1659(万治2)年のことです。

 山王の神は魔除けの神とされています。京都御所でも、山王の神の使いである猿の像が、鬼門の方角にまつられています。こうしたことから、日枝神社は裏鬼門封じを任されたと考えられています。

 ここまで、鬼門・裏鬼門封じの寺社を5か所紹介してきました。

 それぞれの位置関係を見ると面白いことに、寛永寺・神田明神・増上寺を結ぶ直線と、浅草寺・日枝神社を結ぶ直線の交点に江戸城があるのです。

 鬼門・裏鬼門封じの徹底ぶりがうかがえます。

内と外を区別する境界

 さらに江戸の周縁にも、町を守るための仕掛けがなされています。

 例として挙げられるのが、「五色不動」や「六地蔵」です。五色不動とは、寛永年間(1624~1644年)、徳川家光と天海によって江戸市中の不動尊から選ばれたもので、目青、目赤、目黄、目白、目黒の不動尊が存在します。

 このうち4か所の不動尊が位置するのは、

・大山街道の入口
・日光御成街道
・日光街道の江戸への入口
・神田上水の取水口

となっていました。

 その後、六道の守護神とされる六地蔵が、江戸の街道にあてはめられる形で建立されています。

それぞれ、

・東海道
・甲州街道
・中山道
・奥州街道
・元佐倉道
・水戸街道

の入り口に配置されました。

意図をもってつくり出された空間

 そのほかにも非日常的な空間が、江戸の町を囲むように配置されています。奥州・日光道中沿いには小塚原(こづかっぱら)刑場、東海道沿いには鈴ヶ森刑場、吉原や品川には遊郭がありました。

 このように、宗教的な場所や非日常的な場所が江戸の周縁に集中していたことで、江戸の内と外を区切る境界線になっていたものと考えられます。

 人々にとって、この中はある種の「領域」として捉えられていたのではないでしょうか。

※ ※ ※

 以上の通り、江戸ではさまざまな手法で、呪術的な「領域」が形成されていました。

 敵を閉じ込めて攻撃する『呪術廻戦』の領域展開とは少々意味合いは異なるものの、意図をもって空間を作り出すという部分では、通ずるところもあるように思えます。

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