元祖は人形町か浅草か。人形焼きはなぜこの形になった?
東京において人形焼が名物の街といえば、浅草と人形町。はたしてどちらが人形焼の元祖なのでしょうか? また、人形焼はどのような歴史を背景として生まれたのでしょうか?『お好み焼きの戦前史』において、お好み焼きと兄弟関係にある人形焼や鯛焼きの歴史を描いた、食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。 浅草名物人形焼は、実は人形焼ではなく「名所焼」浅草名物の食べ物といえば、雷おこしに人形焼。 人形焼の老舗といえば、仲見世の木村家。木村家では実際に人形焼を焼く工程を見学することができますが、現在も鋳鉄製の「焼型」を使って、職人が一つ一つていねいに人形焼を焼いています。 木村家で人形焼を焼く職人(画像:近代食文化研究会)浅草の人形焼がモチーフとしているのは、ちょうちん 、五重の塔、雷様、鳩。いずれも浅草の浅草寺に関係したモチーフです。 浅草の人形焼(画像:近代食文化研究会)ところがです。鯛焼きは鯛の形をしているから鯛焼きなのに、浅草の人形焼は人形の形をしていません。 実は浅草の人形焼のもともとの名前は「名所焼」。浅草の名所、浅草寺に関する事物を形かたどっているために、名所焼と呼ばれました。 1889(明治22)年浅草生まれ、浅草育ちの作家久保田万太郎は、1927(昭和2)年のエッセイ「雷門以北」に、“パン屋の「木村屋」あつて「名所燒」を賣りはじめた。 ――わたしの記憶にもしあやまりがなければ、いまから十五、六年まへのことである…… ”と書いています。 それがいつしか、人形焼という名前に変わってしまったのです。 人形町名物人形焼は、実は人形焼ではなく「面形焼」人形焼といえば、人形町も有名。人形焼は人形町発祥という説もあるようです。 人形町の人形焼(画像:photoAC) こちらが人形町の人形焼。七福神の顔をモチーフとしたものです。 ということはつまり、人形町の人形焼もやはり人形の形をしていないのです。 実は人形町の人形焼のもともとの名前は「面形焼」。明治時代に生まれた、人の「面」をかたどった焼き菓子なのです。 明治時代の面形焼 清水晴風 『世渡風俗圖會』(刊行年不詳)より(画像:国立国会図書館ウェブサイト) それがいつしか、人形焼という名前に変わってしまったのです。 人形焼は明治時代の屋台発祥こちらが1900(明治33)年 の人形焼屋台を描いた絵です。 明治時代の人形焼 清水晴風 『世渡風俗圖會』(刊行年不詳)より(画像:国立国会図書館ウェブサイト) 浅草や人形町ではなく、「神戸名物」と屋台に描かれています。 もっとも、大阪にはない東京の「大阪名物 大阪焼」、東京にはない大阪の「東京名物 東京コロッケ」など、屋台の「自称」地方名物は、本当かどうか怪しいものが多いのですが。 他にも「軍艦焼」、「肖像焼」、飛行船ツェッペリン号が来日した際には「ツェッペリン焼」、幻の第18回夏季東京オリンピックをモチーフにした「東京オリンピック焼」などが、人形焼や鯛焼きのような餡入りの焼き菓子になりました。 これらの焼き菓子は、絵にあるように屋台発祥の食物であり、各地の祭りや縁日を巡ってあちこちに出没するものでした。浅草や人形町といった、特定の町発祥、あるいは特定の店発祥とは考えないほうが良さそうです。 発祥の場所や店は特定できませんが、人形焼や鯛焼きなどの焼き菓子が生まれた時期は特定できます。1900年代ごろ(明治30年代ごろ)に、一斉に花開いたのです。 鯛焼きなどの焼き菓子は日清戦争後に生まれた実はこれら餡入りの焼き菓子の誕生には、1894年から1895年まで続いた日清戦争が関係しています。 これらの焼き菓子は、ホットサンドメーカーのような鉄製の「焼型」 を使って作られます。鯛や人形などの形にへこんだ焼型に小麦粉生地を流し込み、その上に餡を乗せ、さらにその上に生地をかけて、挟んで両面を焼くのです。 この焼型は、「鋳鉄」でできています。中空になった砂の型に、溶けた鉄を流し込んで 作る鋳物です。 この鋳鉄、欧米から導入された先進技術により、明治時代以降にコストダウンが進みます。木炭からコークスへの燃料交代、生型法の採用、タタラ銑から高炉銑への転換、キューポラの導入などによって、生産が効率化しコストが下がったのです。 そして明治時代の鋳物産業の発展を決定づけたのが、日清日露の両戦争です。戦争によって生まれた巨大な需要が、鋳物産業を含む日本の鉱工業を発展させたのです。 しかしながら、戦争が終わると需要がしぼんでしまいます。鋳物工場は、新しい食いぶちを求めて、民需へと進出していきます。 そうした鋳物工場が目につけたのが、屋台で売られている焼き菓子の「焼型」の生産だったのです。 絶滅危惧種となった餡入り焼き菓子これらの餡入り焼き菓子は、第二次世界大戦後に衰退し消えていきます。1956(昭和31)年の角田猛著『東京の味』によると、あの鯛焼きですら“この頃は少ないやうだ”と絶滅危惧種となっています。 『およげ!たいやきくん』という歌の大ヒットがなければ、鯛焼きの存続も危うくなっていたかもしれません。 屋台の人形焼も消滅してしまいました。浅草の「名所焼」に人形町の「面形焼」、いずれも人形焼ではありませんが、それぞれが今では貴重な、絶滅危惧種の一種なのです。 コロナの影響で観光客の数が減り、お土産物を売るお菓子屋さんはどこも経営が苦しくなっています。浅草や人形町におこしの際には、これらの名物を手にとってみてはいかがでしょうか? 参考:『お好み焼きの戦前史』
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- 人形町・小伝馬町
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