労働者の街から「城南の副都心」に大変貌 大井町の過去と現在と未来を考える
今では東京・城南の副都心に進化している大井町。その歴史について、フリーライターの出島造さんが解説します。城南の下町から副都心へ 城南(目黒区、品川区、大田区、港区)の下町だった大井町、その風景は次第に城南の「副都心」へと変わりつつあります。 大井町駅(画像:(C)Google) 2000(平成12)年頃の大井町駅の駅舎は昭和の香りが漂い、古めかしい立ち食いそば屋もありました。その後、2002年12月にりんかい線の駅が開業した頃から、瞬く間に姿を変えていきました。2008年、東急大井町線に急行電車が走るようになった頃には、すっかり洗練された雰囲気に。 大井町が城南の副都心へと姿を変えていったのは、いつ頃からでしょうか。 1978(昭和53)年に策定された『品川区長期基本計画』によると、大井町駅周辺を核として、大井町~五反田~大崎を結ぶ都市軸の形成が品川区発展の前提とされています。 当時、品川区の最大の繁華街は五反田でした。 大井町とはいえば、昭和50年代になっても戦後のヤミ市のような雰囲気が残っており、国鉄の駅舎から阪急百貨店(品川区大井)側の出口周辺には小さな飲み屋が軒を連ねていました。新宿ゴールデン街や赤羽といった小さな飲み屋の並ぶエリアは、今でこそ一種の観光地となっていますが、それは21世紀になってからのことです。 20世紀の終わり頃まで都内各地にあった飲み屋街は、どこも一見には敷居の高い「ハイレベル」なエリアでした。JRの駅舎は1993(平成5)年にアトレ大井町となり、東西自由通路もできましたが、昭和には、品川文化会館公会堂(現・品川区立総合区民会館、東大井)側はロータリーがあるのに出口はない、という奇妙なつくりになっていました。 国鉄大井工場と地元商店街の強固な信頼国鉄大井工場と地元商店街の強固な信頼 再開発以前の大井町のにぎわいは、今とは少々趣が異なりました。 品川区のほかの地域がそうであるように、大井町も国鉄大井工場(現・東京総合車両センター)や日本光学工業(現・ニコン)本社工場など大規模な工場が軒を連ねる工業地帯でした。大工場の周辺には住宅やアパートが立ち並び、商店街も繁栄。多くの人が働く工場は地域に欠かせない存在で、「労働者の街」と呼ばれるゆえんともなりました。 例えば、国鉄大井工場は最盛期に約3000人が働いてました。昭和時代において、この工場に就職することは、生涯を大井町の住民として過ごすということでした。というのも異動はほとんどなく、退職まで働くのが一般的だったからです。 駅東にある昭和レトロな横丁「東小路飲食店街」(画像:(C)Google) とりわけ中学卒業者を対象にした養成所普通課程で入所すると、大井町での生活は人生そのものでした。なお養成所普通課程とは、高校レベルの教育と技術を習得させて、そのまま工場で働くもので、かつては多くの行政機関や企業が同様の制度を持っていました。 そんな地域密着ぶりは、商店街での信用にも現れていました。当時は大井西銀座商店街と呼ばれていた、大井町駅から品川区役所までの通りにある大井サンピア商店街では、大井工場で働いている人は月賦・月末払いが当たり前でした。一方、駅南西の光学通りも日本光学工業の従業員を相手にした商店街が栄えていました。 こうした商店街はそれぞれ、店と客が強固な関係をつくっており、客はひいきの商店街以外では買い物をしないのが常識だったといいます。 35年前に持ち上がった「大井プレイス構想」35年前に持ち上がった「大井プレイス構想」 こうした風景は再開発によって徐々に姿を消していきましたが、多くの地域でもともとの街の風景が完全に失われているのに比べて、大井町は古い部分も維持されています。 駅周辺の表通りは新たな副都心といえる近代的な風景ですが、裏通りに回ると昔ながらの飲み屋街が残っています。この新旧が入り混じるバランスのよさは、東京でも随一といえます。 そんななかで、気になるのが未完計画である「大井プレイス構想」です。 大井プレイス構想の対象エリア(画像:品川区) この計画は1987(昭和62)年に考えられ、JRの工場などの鉄道施設の上に人工地盤を敷いて線路の上に住居や文化施設、オフィスなどを建設しようというものでした。また、線路の上にできる新しい町によって大井町と大崎をひとつの町にしてしまおうとも考えられていたのです。 あまりに壮大な計画のため、いまだ実現していませんが、新宿駅が再開発で東西をまたぐ新たな施設を計画していることを考えると、いずれこの計画も実現するかもしれません。
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