文明開化の味「あんパン」。そのルーツは欧米ではなく中国にあった?!

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文明開化の味「あんパン」。そのルーツは欧米ではなく中国にあった?!

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食文化史研究家

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明治時代初期に発売され、全国的なヒット商品となった木村屋總本店のあんパン。欧米文化が流入した際に発明された「和洋折衷」文化の象徴とされるあんパンですが、実は当時の欧米文化とは関係のないものでした。意外なそのルーツを食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

木村屋總本店のあんパンのルーツ

 銀座のど真ん中、三越百貨店や和光のすぐ近くに、行列の絶えないパン屋があります。

銀座の木村屋總本店(画像:近代食文化研究会 )



 木村屋總本店(そうほんてん)。行列に並ぶ人がお目当てにしているのはもちろん、木村屋總本店発祥の酒種あんパンです。

木村屋總本店の酒種あんパン「桜」(画像:近代食文化研究会)

 明治時代初期に生まれたこのあんパン、欧米文化と日本文化の融合の象徴と思われていますが、実は明治時代の欧米とは関係のないパン。

 そのルーツは中国にあるのです。

イーストの培養に苦労した日本人

 幕末に日本が開国すると、横浜や東京に製パン店が開店します。ところが日本人がパン作りを行う際に、乗り越えなければならない大きなハードルがありました。イーストの培養です。

 日本でドライイーストが開発され、海外からも生イーストを輸入するようになったのは大正時代から。工業生産されたイーストが流通していなかった明治時代は、各店の職人がビール用の酵母「ホップス種」を培養していました。
 製パン店のパンの品質は、ひとえに良質なホップス種を培養できる職人の腕にかかっていたのです。
 ところが『パンの明治百年史』(パンの明治百年史刊行会・1970年刊)によると、ホップス種を自ら培養できる日本人の職人は少なかったとのこと。優秀なイースト菌を培養できるパン職人の確保が、製パン店の命綱だったのです。
 木村屋總本店の創業者、木村安兵衛が製パン店を開いたのも、パン職人を確保できたため。長崎のオランダ屋敷で製パン技術を身につけた梅吉という職人と出会い、1869(明治2)年に木村屋總本店の前身となる文英堂を創業します。
 ところが当時長崎で焼かれていたパンのイースト菌は、ホップス種ではありませんでした。酒種だったのです。

長崎で焼かれていた酒種パン

 鎖国してから開国するまでの江戸時代において、日本で唯一パンが焼かれていた場所が長崎です。出島に住むオランダ人がパンを必要としていたからです。

出島阿蘭陀屋鋪景 豊島屋 永見徳太郎編『続長崎版画集』1926年刊より(画像:国立国会図書館ウェブサイト)

 オランダ語通訳の楢林重兵衛は、『楢林雑話』において長崎におけるパンの製法を書き残しています。それは、小麦粉に甘酒を混ぜて焼く、というものでした。

 甘酒に定着させた酵母を、酒種といいます。つまり出島のオランダ人が食べていたパンこそが、あんパンの先祖、酒種パンだったのです。

阿蘭陀人之圖 大和屋 永見徳太郎編『続長崎版画集』1926年刊より(画像:国立国会図書館ウェブサイト)

 この酒種により発酵させた小麦粉生地は、まんじゅうの皮の生地と製法が同じ。

 つまり、江戸時代の長崎のパンとは、まんじゅうの皮の生地を蒸さずに焼いたもの。木村屋總本店の酒種あんパンとは、「蒸すかわりに焼いた小豆あん入りまんじゅう」にほかなりません。

酒種を使用した小豆あん入り酒まんじゅう(画像:photoAC)

 そして日本のまんじゅうとは、中国から渡来した「饅頭」が、日本酒の発酵法と融合したもの。酒種あんパンのルーツは、欧米ではなく中国にあったのです。

全国に普及したあんパン

 酒種あんパンは全国に普及し、木村屋總本店以外の製パン店も酒種あんパンを作るようになります。

 日本人には難しかったホップス種の培養ですが、酒種の培養ならばお手の物。まんじゅうを作る全国の菓子屋が発酵技術を持っていたので、容易にまねることができたのです。

 また、酒種あんパンの味、香りが日本人好みだったことも、普及を後押ししました。

 ビールの香りに近く、酸味のあるホップス種生地のパンは、日本人に馴染みのない味と香りでした。一方、酒種パンは食べ慣れたまんじゅうの味と香り。

 焼いたまんじゅうに「パン」と名付けて売るという、木村屋總本店のコロンブスの卵的な発想により、日本にパン文化が定着していったのです。

食事から菓子へ まんじゅうとパンの変遷

 日本におけるまんじゅうの最古の記録は、曹洞宗開祖道元が著した『正法眼蔵』。そこでの「饅頭」は、汁と一緒に出され、箸で食べるというもの。菓子というよりは食事に近い「点心」という位置づけの食べ物でした。

 しかし、米と大麦を主食とする日本では、食事としてのまんじゅうは定着しませんでした。「饅頭」は中世の終わりには、主食と競合しない「菓子」へと変化していきます。信長が家康を饗応した1581(天正9)年の献立では、食事の後に「御菓子」としてまんじゅうが出されています。

 幕末に渡来したホップス種のパンも、米と大麦を主食とする日本の食文化に阻まれ、西洋料理以外の場所での日常の主食=食パンの普及までには時間がかかりました。

 一方木村屋總本店は、あんパンを最初から「菓子」として売りました。そのサイズも、主食を邪魔しない小さなまんじゅうサイズ。この木村屋のあんパンによって、日本のパンはまず菓子として広まっていきました。

 中世に数百年をかけて、ようやく菓子として普及したまんじゅう。一方のパンは、明治維新から数十年であんパン=菓子として普及しました。これはひとえに、木村屋總本店の功績といえるでしょう。

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