身近過ぎて知らなかった! 東京のそば屋が「ラーメン」を出しているワケ

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身近過ぎて知らなかった! 東京のそば屋が「ラーメン」を出しているワケ

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食文化史研究家

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東京のそば屋には、ラーメンを提供する店が少なくありません。いったいなぜでしょうか。著書『お好み焼きの戦前史』においてそば屋のラーメンの歴史を、『牛丼の戦前史』においてそば屋の丼物の歴史を明らかにした食文化史研究家の近代食文化研究会さんが解説します。

東京の住宅街のそば屋にはラーメンがある

 東京の古くからの住宅街には、必ずといっていいほどそば屋があります。そして、そのような老舗そば屋のなかには、ラーメンを提供する店が少なからずあります。

そば屋のラーメン(画像:近代食文化研究会)



 明治時代末に東京に移住した作家、平山蘆江(ろこう)の回想録『東京おぼえ帳』によると、東京のそば屋にラーメンが普及したのは大正時代末期のことでした。なぜそば屋は、大正時代にラーメンを出すようになったのでしょうか?

 実は、住宅街のそば屋が天丼などの丼物を出すようになったのも大正時代。大正時代のそば屋は、そばと酒の店から、ラーメンや丼物など多彩な食事を提供する「街の食堂」へと変化していったのです。

明治時代のそば屋は「飯屋」にあらず

 戦前の東京では、

「銭湯の近くには、必ずそば屋がある」

といわれていました。銭湯で湯に浸り、ついでにそば屋で酒を一杯、そばをちょっと食べるというのが、住宅街のそば屋の典型的な使い方でした。

 正式な夕食は銭湯に行く前か後に家庭で食べるものだったので、そば屋は本格的な食事をとる場所ではなかったのです。

古い銭湯のイメージ(画像:写真AC)

 奥田優曇華(うどんげ)著『食行脚(しょくあんぎゃ)』によると、新宿のそば屋が大正時代に初めて丼物を出した際には、「飯屋になったと軽蔑する」同業者が多かったそうです。そば屋はそばだけで勝負するものだ、というプライドもあったようなのです。

 そんなそば屋がメニューを増やし、食堂的な店へと変化した背景には、明治時代末から急激に増加した東京の人口がありました。

食事難民の増加

 東京府の人口は、1898(明治31)年に305万人であったものが、1925(大正14)年に448万人と、27年間で約1.5倍に膨れ上がります。

 急激な人口増加は、産業構造の変化により、地方から東京へと人々が移住することによって引き起こされました。当然のことながら、その中には若い独身者が多くいました。

 コンビニもスーパーも、ファストフード店も存在しない時代です。自炊しようにも、貸間には冷蔵庫はおろか、台所すらありません。急激に増えた独身者たちは、食事難民となったのです。

古い街並みのイメージ(画像:写真AC)



 彼らに食事を提供するための場、学生食堂や社員食堂があらわれたのが大正時代です。東京市が公設の食堂を各地に作ったのも、大正時代でした。

 しかしながら、これらの食堂は学生街やビジネス街、繁華街に多く、住宅街には少なかったのです。帰宅した独身者に食事を提供できる店は、銭湯とともに住宅街を網羅していたそば屋しかなかったのです。

製麺機の普及がラーメン導入の決め手に

 増大する食事需要に対応するために、そば屋として比較的簡単に導入することができた料理が、ラーメンや丼物でした。

 いずれもそば屋の食器である丼が流用できますし、天丼用の天ぷらはそば屋が得意とする料理です。そばと同じ麺類であるラーメンも、そばの調理技術をそのまま応用することができました。

 そしてラーメンの導入を後押ししたのが、製麺機の普及です。

大正時代の製麺機の広告(画像:近代食文化研究会)

 藤村和夫著『そば屋の旦那衆むかし語り』によると、1921(大正10)年頃には、東京のほとんどのそば屋が手打ち麺から機械製麺に移行したそうです。

 製麺機のおかげで、中華麺製麺所が近所になくとも自家製麺することができました。また、製麺機による省力化により、ラーメンや丼物などを調理する時間的余裕も生まれたのです。

ガスによって広がった調理の幅

 そば屋がラーメンを提供するためには、乗り越えられなければいけないハードルがありました。

 そば湯を提供する東京のそば屋では、そばと同じかまどで中華麺をゆでるわけにはいきませんでした。そば湯が変な味になってしまうからです。

 かといってかまどをもうひとつ増やす、ということも難しかったのです。まきや石炭を使用する当時のかまどは大きく、調理場のスペースの関係からそうそう増やせるものではなかったのです。

 また、まきや石炭の火の管理は難しく、「釜前」という専門の職人がつきっきりで管理しなければなりませんでした。ラーメンを作るには、かまどだけでなく釜前の人数も増やさねばならなかったのです。

 ところが、大正時代末期にコンパクトで温度調節が簡単なガス熱源が普及。

コンパクトで使いやすいガス熱源をアピールする『ガスのお台所』(画像:国立国会図書館ウェブサイト)



 まきや石炭のかまどがコンパクトなガスがまに変わることで、熱源が増え、その管理も楽になりました。

 ガスの導入によって、以前と同じスペース、同じ労力で、そばとラーメン、さらには丼物を同時に調理できるようになったのです。

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