時代劇の定番流刑地「八丈島」 意外なことに罪人は楽しく暮らしていた!
時代劇の流刑地の定番として知られる「八丈島」。そんな同島で暮らした罪人たちは、私たちの想像よりも島の生活をエンジョイしていたのかもしれません。離島ライターの大島とおるさんが解説します。時代劇でもお馴染みのスポット 八丈島へ島流し――と言えば、時代劇における奉行裁きの定番です。 今では羽田空港(大田区羽田空港)から最短50分で行ける八丈島ですが、かつては本土と隔絶された孤島でした。誰が言いだしたか、 「鳥も通わぬ八丈島」 という表現もあります。 そんな八丈島に流罪となった最初の人物が、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)です。秀家は関ヶ原の戦い(1600年)で西軍の主要人物として徳川家康と戦いましたが、敗北。その後、薩摩まで逃れますが結局流罪に。1606(慶長11)年のことでした。 秀家は1655(明暦元)年に84歳で死去。実に、人生の半分以上を八丈島で過ごしたことになります。乱世が鎮まった時期には赦免の話もあったようですが、秀家は固辞して島にとどまったといいます。結果、その子孫たちは現在でも島に続いています。 江戸の人口増加と流刑の合理性 これ以降、八丈島を始めとする伊豆諸島は、罪人を送る流刑地として利用されていくことになります。江戸時代を通じて、流刑は死罪に次ぐ重い刑罰でした。 伊豆七島の八丈島(画像:海上保安庁) その理由は、刑罰を執行する側の事情にありました。 人口の増加した江戸では、牢(ろう)屋敷が常に定員過剰の状態だったのです。罪人を入れる牢が不足なのに加えて、終身刑を科した場合には、罪人を長い間管理していかなければなりません。そうした手間を省いて、容易に脱出できない島に止めおくという点で、流刑はもっとも効果的な刑罰と見られていました。 1742(寛保2)年に編さんが完了した「公事方(くじかた)御定書(御定書百箇条)」という資料があります。これは犯罪に対する量刑の基準などを定めたものです。 公事方御定書によれば、 ・賭博 ・殺人 ・鉄砲の不法所持 ・僧侶の女犯 などが流刑となる罪とされています。 そして、江戸では伊豆七島、京都以西では隠岐・壱岐・天草などが流刑地として選ばれています。 島で自活していた流人島で自活していた流人 伊豆七島の中でも、罪の軽重によって流される島に違いはありました。比較的罪の軽い者は大島・新島。次いで三宅島。より罪の重い者が八丈島でした。 もっとも江戸時代の交通の便から考えると、大島でも八丈島でも江戸から遠く離れた土地であることに変わりはありません。なにより島から移動する自由がないわけですから、刑罰としての重みを感じます。 八丈島の位置(画像:(C)Google) また、島へ送られるまでも大変でした。 流刑と決まった者はひとまず江戸伝馬町の牢屋敷に入れられ、春秋に1隻ずつ出るの船で島へと向かいます。途中、船に乗る際には身寄りの者が別れのあいさつに来て、見舞いの品々を受け取ることができました。その後、船は浦賀や下田を経由して順風を待ち、伊豆諸島へと向かいました。 島に送られた流人の生活は「日常勝手たるべし」とされていました。島に流したこと自体が刑罰のため、島から出ない限りは特におとがめもなく、自活して暮らせというわけです。 村人に重宝された流人 しかし、船から降ろして放置というわけではありません。八丈島の場合、流人を受け取った代官は抽選で流人を村に割り当てて、自活ができるように整えました。 流人を預かった村では小屋を建てて流人を迎え、農作業の手伝いなどの仕事を与えていました。年に数度しか船の来ない島では、罪人であっても遠い江戸の街の流行を知らせてくれる存在だったのです。島では流人のことを「クンヌ(国人)」と呼び、酒宴で江戸の流行歌を歌わせるなど、親しく交際してました。 八丈島の道路(画像:写真AC) とはいえ、流人の生活は平穏ではありません。 耕地の少ない八丈島は、江戸時代にたびたび飢饉(ききん)に見舞われました。現代のように食糧の大量輸送は不可能であり、ひとたび飢饉になれば、すぐに生きるか死ぬかの問題となりました。こうしたとき、地元に根を持たない流人は真っ先に飢え死にしていたといいます。 「鬼島」か「情け島」か「鬼島」か「情け島」か 江戸時代前期、現在の新潟県上越市周辺を領有した越後国高田藩で起こった「越後騒動」がきっかけで、徳川綱吉の裁定により八丈島に島流しにされた永見大蔵(ながみ ながよし)という人物がいます。 この人物は家康のひ孫という由緒ある家系だったため、島での暮らしには困らなかったといいます。ところが1701(元禄14)年に島を襲った飢饉では、流人であるために食糧を得られず、小判の詰まった千両箱を枕に飢え死にしたという言い伝えが伝わっています。 八丈島の景色(画像:写真AC) それでも飢饉さえなければ、島の人々の流人に対する態度は温かいものでした。民謡「八丈ショメ節」には 「沖で見たときゃ鬼島と見たが 来て見りゃ八丈は情け島」 と、うたわれています。 赦免されなければ出られない島も、意外と「住めば都」だったのかもしれません。
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