明治から令和まで 激動の150年を駆け抜けた「東京庁舎」の歴史

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明治から令和まで 激動の150年を駆け抜けた「東京庁舎」の歴史

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小川裕夫

フリーランスライター

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2021年、東京都庁舎は開庁30周年を迎えました。旧庁舎を含め、その歴史についてフリーランスライターの小川裕夫さんが解説します。

大名屋敷を接収した明治新政府

 JR新宿駅から徒歩10分ほどの距離にある東京都庁舎(新宿区西新宿)は、1990(平成2)年に完成しました。そして、翌年に開庁。2021年は開庁30周年の節目です。

新宿区西新宿にある東京都庁舎(画像:小川裕夫)



 徳川将軍家が幕府を置いた江戸は、明治新政府の発足に伴い東京へと改称。そして、地方自治体として東京都の前身である東京府が1871(明治4)年に発足します。

 江戸から明治へと時代が変わり、政体も大きく変化しました。政体が変わっても、すぐに人々の生活が変わるわけではありません。明治の東京には、江戸の面影を色濃く残す大名屋敷があちこちに立地していました。明治新政府は、そうした大名屋敷を次々と接収。それらの一部は役場として再活用されていきます。

 東京府の府庁舎として再活用されたのは、大和郡山藩柳沢家の藩邸でした。大和郡山藩柳沢家の藩邸は現在の住所に表すと千代田区内幸町にありました。

 東京府は、大和郡山藩柳沢家の藩邸を改修して使用。とはいえ、江戸時代に建設された大名屋敷のため、その構造は時代に対応した建物とは言いがいものでした。好立地ながらも、大和郡山藩柳沢家の藩邸は明治という新時代には不向きな建物だったのです。

 そのため、東京府は旧大和郡山藩邸だった府庁舎を一時的な仮庁舎として捉え、新時代に対応した庁舎を建設することを模索します。新庁舎は、諸外国にもひけを取らない見栄えのする建物であることが求められました。そうした機能のほかにも、帝都・東京の役所であることから国の機関とも連絡・調整を密にしなければならないこともあり、利便性のいい場所という条件もありました。

 そうした事情から、場所の選定に時間を要します。場所の選定もさることながら、新時代に適応した庁舎のデザインも決まりませんでした。

 1897年、ようやく2代目となる府庁舎が完成します。2代目の東京府庁舎を設計したのは工科大学校(現・東京大学工学部)でジョサイア・コンドルから指導を受けた妻木頼黄(よりなか)です。

 コンドルは明治をけん引する建築界の巨匠をたくさん育てたお雇い外国人として知られています。コンドルの弟子には、東京駅の赤れんが駅舎や日本銀行本店の本館を設計した辰野金吾がもっとも有名です。妻木も辰野のライバルとしてしのぎを削り、明治建築界における三大巨匠のひとりとして数えられる実力者でした。

防火対策に優れた府庁舎

 当時、明治の流行でもある文明開化を意識して、最新の建築物にはれんが造りが盛んに取り入れられています。妻木が設計した2代目の東京府庁舎も、2階建てのれんが造りでした。それだけ建築家が西洋を強く意識していたことをうかがわせますが、もうひとつ重要なポイントが防火です。

 当時の家屋は木造だったので燃えやすく、火事に弱いという欠点がありました。庁舎建築にれんが造りが採用された背景には、重要な建築物なので焼失を防ぐという防火対策も含まれていました。

 府庁舎に使用したれんがは、東京集治監(しゅうちかん。囚人を拘禁していた施設)と日本煉瓦(れんが)製造から調達しています。東京集治監は銀座煉瓦街のプロジェクトでもれんがを供給しています。もうひとつの日本煉瓦製造は2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一が立ち上げた企業で、東京駅に使われた赤れんがも日本煉瓦製造が製造したものです。

 当時の大工はれんがを積んで建物をつくるスキルもノウハウもありませんでした。そのため、渋沢は土木用達組(現・大成建設)や清水満之助商店(現・清水建設)に声をかけて、府庁舎は施工にこぎ着けています。

 こうして西洋風の東京府庁舎が完成しますが、府庁舎には東京府のみならず1889年に発足した東京市の役所も同居しました。当初、東京府と東京市が同居していた方が事務の連絡・調整がスムーズになると考えられていたからです。

 しかし、歳月とともに東京府や東京市の役割が増えていき、庁舎は手狭になりました。そのため、分庁舎や別館を新増設していきます。それらの建物は丸の内では収まりきらなくなり、東京府・東京市の庁舎は大手町や芝公園などにも分散されて建設されたのです。

 そこまで分庁舎や別館を建設しても、膨大な事務作業に支障をきたすようになりました。また、別々の自治体が同じ庁舎で作業をすることにも支障をきたすことになり、東京市は東京府から独立した庁舎の建設を計画。1933(昭和8)年、月島4号地と呼ばれる埋め立て地に市庁舎を建設することを決定します。

1932(昭和7)年に発行された地図。赤枠内が「月島4号地」(画像:国土地理院)



 しかし、月島4号地の埋め立て計画が順調に進まなかったこともあり、東京市庁舎は実現に至りませんでした。そして、1943年には政府が戦時体制の強化を目的に東京府と東京市を強引に合併させます。府と市が合併して東京都が誕生。東京市が消滅したことで、市庁舎の建設計画は白紙撤回されたのです。

 東京都は旧府庁舎を使い続けましたが、1945年に一部の建物が空襲で焼失。近隣の日本赤十字社が辛うじて焼失を免れたため、日本赤十字社に間借りする形で業務を続けました。

 戦後、東京都は損壊した庁舎を再建することが急務になります。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)の目もあって自分たちの判断だけで庁舎を建設することはかないません。それでも、1950年には都議会議事堂がようやく完成。以降、少しずつ庁舎は再建されていきます。都議会議事堂の後に完成した第1本庁舎は、建築家の丹下健三がデザインを担当しました。

旧都庁舎の移転とその理由

 こうして東京は行政体としての体裁を整えていきます。しかし、1960年代の東京は高度経済成長による影響や1964(昭和39)年の東京五輪によるインフラ整備などに伴って人口が急増していました。

 特に、多摩エリアは昭和40年代からニュータウンが造成されていたこともあって多くの人が移り住むようになっていました。そのため、有楽町駅前にある都庁舎は都民の多くから「遠い」「使いづらい」と不評でした。

 こうした事情にくわえて庁舎が老朽化していたこともあり、東京都は1971年に東京都本庁舎建設審議会を設置。都庁舎の移転を含めた庁舎の建て替え議論を始めます。都議会議員のなかには、都庁舎の建て替えは容認しても庁舎を移転させることに反対する議員も多くいました。

 都庁舎の移転には、都職員からも根強い反対があり、さらに中央官庁の職員、そして国会議員からも「中央官庁が集まる霞が関から遠くなると、何かと不便」といった理由から反対が相次いだのです。

 また、東京の東側に住む都民からも「ただでさえ、戦後は渋谷・新宿・池袋といった西側の街がにぎわうようになり、東側はにぎわいが減っている。そのうえ都庁まで移転してしまうと、東側の街から人がいなくなる」といった心配の声があがったのです。都庁舎の移転は、賛成・反対と意見は真っ二つに分かれる事態になり、収拾はつかなくなりました。

 1979年、美濃部亮吉知事から鈴木俊一知事へと交代。鈴木知事は、過密化する東京の問題を解決することに取り組みます。その手段として、積極的に副都心への分散を推進するのです。

 過密解消の総仕上げとして、鈴木都知事は1985年に都庁を西新宿へと移転して建て替えることを決定。東京の東側からにぎわいを消失させないように、有楽町駅前の都庁舎跡地は人が集まるシティホールを建設する方針も示しました。

1963年頃の新宿区西新宿の様子。淀橋浄水場が見える(画像:国土地理院)



 現在、都庁舎の周辺は高層ビルが立ち並んでいますが、当時は違いました。新宿駅西口には、東京の水がめと呼ばれていた淀橋浄水場があったのです。広大な浄水場は都庁舎の移転決定前から、少しずつ東村山へと移転が進められていました。それが都庁の移転という一大事業によって一気に進むことになり、淀橋浄水場は幕を下ろしたのです。

 西新宿に新しく建てられる都庁舎は、国内9社によって設計競技(コンペ)を実施。その結果、有楽町駅前の都庁舎を設計した丹下健三の案に決まります。2度にわたり都庁舎を手がけることになった丹下ですが、丹下がコンペに出したデザイン図を見ると、ほぼ現都庁舎と同じ形をしています。それほど、完成度が高いデザイン図だったのです。

 有楽町駅前から西新宿への移転に際して、東京都は都庁舎を「東京の自治と文化のシンボル」と位置付けました。そこからは、「単に、行政の庁舎ではない」という気概が見え隠れします。

 そうした意気込みもあり、庁舎の内外には38点のアートワーク(彫刻やレリーフ)を設置することが決まりました。来庁者が自然と芸術鑑賞できるような工夫も凝らされたのです。

3回にわけて行われた移庁作戦

 西新宿の都庁舎に、そうした芸術作品が並べられたのには伏線があります。有楽町駅前の第1本庁舎には芸術家の岡本太郎が描いた陶板壁画が飾られていました。当初、岡本太郎の壁画は、新庁舎にも飾られる予定になっていました。

 しかし、7点11面から構成される巨大な作品だったこともあって技術的・費用面で移設は困難と判断されたのです。東京都と岡本太郎本人との話し合いにより、登板壁画は解体されました。

 有楽町駅前から西新宿へ都庁が移転作業は、かなりの困難を要しました。当時、本庁舎に勤務する都職員は約1万3000人。職員の移動と同時に、書類なども滞りなく持ち運ばなければなりません。

 現在ならデータはクラウドで管理されているので、持ち運ぶ必要はありませんが、当時は紙ベースの書類・資料ばかりです。移転作業には紛失・散逸のリスクがつきまとい、それだけに慎重に、そして厳重な作業になることが予想されました。

 鈴木俊一知事は、都庁舎移転プロジェクトを東京都のシンボルマークがいちょうであることとかけて、“移庁(いちょう)作戦”と名付けて、東京都民の関心を集め、そして都民からの応援も得ることに成功しました。

 東京都は移庁作戦を3回にわけて実行し、「平成のミニ遷都」とも称された都庁舎の引っ越しは無事に完了。1991(平成3)年4月1日に開庁を迎えました。

 以降、西新宿に天高くそびえる都庁舎は新宿のシンボルとなりました。当時は殺風景だった西新宿の街並みも、少しずつ開発されてオフィスワーカーが増え、いまや買い物客やデート中のカップルが闊歩(かっぽ)する街になっています。そしてコロナ禍前までは、都庁の展望台が訪日外国人観光客の定番コースにもなっていました。

新宿中央公園から眺めた都庁舎(画像:小川裕夫)



 最近では、雨漏りなど建物・施設の老朽化といった話も聞こえてきますが、本格的な建て替えや移転の話は出ていません。それでも近年のトレンドでもあるCO2削減のため、第1庁舎・第2庁舎・都議会議事堂では空調などを節電仕様へと設備更新や緑化推進に取り組んでいます。

 また、都庁舎は大震災時に多くの人たちの避難場所としても活用されることから、耐震化やトイレのオストメイト化、多言語表記の導入も進められています。

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