都内にひっそり残る「歴史的偉人」の墓 新選組の近藤勇は3か所もあるってホント?

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都内にひっそり残る「歴史的偉人」の墓 新選組の近藤勇は3か所もあるってホント?

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合田一道

ノンフィクション作家

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歴史上の人物たちの墓は、今も東京都内の各所にひっそりたたずんでいます。ノンフィクション作家の合田一道さんが、彼らの功績とともに、それぞれの墓前を訪ねました。

吉田松陰の墓は世田谷区と荒川区に

 コロナ禍の世ですが、墓参りの季節になると都内の墓地や霊園などは墓参の人たちで賑わいます。

 最近は“歴史ブーム”の影響か、著名な人物の墓を巡るツアーもあるようで、筆者(合田一道。ノンフィクション作家)が取材で文京区小石川の伝通院にある清河八郎の墓を訪ねたとき、偶然、数人の年配者のグループにぶつかり、目を見張ったものです。

 清河は浪士組総括で、幕政改革を主張し、顔なじみの幕吏(ばくり)に討たれた人物です。

 さぁ、墓参りの始まりです。まずは幕末維新の前触れとなる「安政の大獄」(1858~1859年)で斬首された吉田松陰の墓を巡りましょう。

荒川区南千住の小塚原回向院にある吉田松陰の墓(画像:合田一道)



 実は松陰の墓は、世田谷区若林の松陰神社内の墓所のほかに、荒川区南千住の小塚原回向院にもあり、墓の正面に戒名の「松陰二十一回猛士」と刻まれています。

 吉田の文字をばらばらにすると「二十一回」になり、死ぬまで全力で二十一回行動するという決意を表しているのです。

 その墓のすぐそばにやはり大獄で処刑された橋本左内(はしもと さない)や瀬三樹三郎(らい みきさぶろう)らの墓が建っています。

 反対側の壁面に、沿う形で同じ形の墓がずらりと並んでいます。管理事務所に尋ねて、これが「桜田門外の変」(1860年)で大老井伊直弼を襲撃した水戸藩士らの墓と教えられ、思わず息を飲み込んだものでした。

井伊直弼は世田谷の豪徳寺に

 討たれた井伊の墓は、世田谷区の豪徳寺(同区豪徳寺)にもあります。唐破風(からはふ)笠付き位牌型と呼ばれる豪華な墓で、高さ3m43cmもあります。

 背後に並ぶ卒塔婆に「令和」の文字が見え、今も命日になると縁者が訪れているのを知りました。

世田谷区豪徳寺の豪徳寺にある井伊直弼の墓(画像:合田一道)



 幕府勘定奉行を4度も務めた小栗忠順(上野介)の墓は、豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園と群馬県高崎市倉淵町権田の東善寺にあります。

 戊辰戦争が始まり、小栗は主戦論を唱えて勘定奉行を罷免され、旧知行地の権田村に引きこもり、東善寺に仮住まいしますが、大砲や小銃を持ち帰っていたため、新政府に抵抗したとして斬首されたのです。

“偽官軍”として断罪された相楽総三は、維新最大の悲劇と言われました。

 官軍先鋒隊を命じられた相楽は、赤報隊を名乗り「年貢半減令」を掲げて中山道を進撃しますが、新政府の首脳は急きょ、相楽ら8人を信濃国下諏訪で捕らえ、偽官軍であると処刑、晒首(さらしくび)にしました。

 長野県下諏訪町魁町の刑場跡に相楽らの霊を悼む「魁塚」(相楽塚)が建っています。相楽の本名「小島」を頼りに、菩提寺である品川区西五反田の専修寺を訪ねました。

 しかし墓はあるものの、遺骨は同家ゆかりの人により引き取られていました。過去帳を見せてもらい、戒名の後に「小島兵馬の子」とあり、その下に小さく「偽名相楽惣(ママ)三」と記されていました。

 妻は戒名のほかに「兵馬娘」とあり、相楽の百か日法要後に自害していたことを知りました。25歳の若さでした。

近藤勇の墓はなんと5基も

 新政府に抵抗したとして斬首、晒首になった新選組の近藤勇の墓は、意外なことに5基もあるのです。

 まず首のない遺体を葬った刑場跡の滝野川(現在の北区滝野川、JR埼京線板橋駅前)には、「近藤勇宣昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれた供養碑。これは後年、同志の永倉新八が建立したものです。

 次に、首を葬った三鷹市大沢の龍源寺には戒名と墓。荒川区南千住の円通寺にも、別の戒名と墓が、さらに愛知県岡崎市の本宿寺にも墓があります。

三鷹市大沢の龍源寺にある近藤勇の墓(画像:合田一道)



 京都市の壬生寺には勇の髪を祭った遺髪塔が、また福島県会津若松市の愛宕山中腹には会津藩松平容保(まつだいら かたもり)が建てた墓があり、同市の天寧寺には別の戒名があるのです。

 戒名が三つ、墓が五つもあるとは。近藤勇さんよ、もって瞑(めい)すべし、ですね。

 箱館戦争で戦死した土方歳三の墓は、北海道函館市の称名寺と、故郷の東京・日野市の石田寺(同市石田)にあります。問題は遺骨の行方。いまだにどこに埋葬されているのか判然とせず、歳三ファンをやきもきさせています。

 病に倒れた天才剣士、沖田総司の墓は港区元麻布の専称寺にあります。小さなあずまやに覆われた墓前に、きれいな花が供えられていて、その人気の高さを感じるのでした。

勝海舟と榎本武揚の墓は

 会津戦争の責任を一身に背負って死んでいったのが同藩家老の萱野権兵衛です。最期の日、権兵衛は広尾の保科家別邸に着くと、主君松平容保からの書状を読んで感涙にむせび、腹を切って果てたのです。港区白金の興善寺に墓があります。

 許嫁(いいなずけ)がいたのに無理やり政略結婚をさせられ、将軍家茂に嫁いだ和宮の最期はあっけないものでした。

 1877(明治10)年、西南戦争の最中、箱根塔之沢の環翠楼(かんすいろう)にとどまり、脚気(かっけ)療養の湯治中、衝心発作で倒れ、そのまま亡くなったのです。32歳でした。

港区芝の増上寺にある和宮の墓(画像:合田一道)



 墓は港区芝の増上寺にあります。屋根をかぶせた中世の宝塔型の墓で、隣に夫、家茂の墓が並んで建っています。

 倒れゆく徳川を支えた勝海舟と、脱走して蝦夷地に共和国をつくろうとした榎本武揚にも触れておきます。

 海舟は自宅で突然、卒倒し、丸二昼夜昏睡したまま亡くなりました。最期の言葉は「これでおしまい」の一言でした。墓は大田区南千束の洗足池公園内に、妻の墓と並んで建っています。近世の五輪塔の墓で、「勝海舟」「勝海舟室」の文字が刻まれています。

 武揚は切腹を図ったものの、近習(主君のそばに仕える者)らに止められ降伏。死刑は免れないところでしたが、敵将黒田清隆の奔走によって救われ、新政府に出仕し、樺太・千島交換条約を締結するなど、以後、政府高官、大臣などの道を歩きます。

 武揚の墓は文京区本駒込の吉祥寺にあります。隣に妻の墓が並んでいます。

墓が語りかけてくるものとは

 このふたりを福沢諭吉は『痩我慢の説』で痛烈に批判しました。海舟は「毀誉(きよ)は人の主張、我にあずからず我に関せずと存じ候」と突っぱねたのに対して、武揚は「いまは多忙なので、いずれ機会をみて……」とやんわり答えています。

 ところが諭吉はほどなく脳溢血で亡くなり、武揚は答える機会を逃してしまうのです。諭吉の墓は港区元麻布の善福寺にあります。

 歴史を動かした人たちが眠る墓。その場にじっとたたずむと、墓が何かを語りかけてくるような思いになるのです。

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