明治維新の身分制解体後も「遊郭」が残り続けた理由

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明治維新の身分制解体後も「遊郭」が残り続けた理由

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山下ゆ

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江戸時代の身分制が解体された明治維新。そのなかでも今回は遊女について取り上げます。ブログ「山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期」管理人の山下ゆさんが解説します。

解放令後も残った遊女と遊郭

 明治維新によって江戸時代の身分制は解体され、四民平等の世の中となりました。現在からすれば当たり前の変化かもしれませんが、身分ありきの社会で生きていた当時の人にとって、これは劇的な変化であったはずです。

 今回紹介する横山百合子『江戸東京の明治維新』(岩波書店)は、江戸が東京に変化していくなかで、その劇的な変化を生き抜いた市井(しせい)の人々の姿を紹介した本になります。

・仕事を失った旧幕臣の不動産をめぐるサバイバル
・地主の代理人として土地や家屋を管理しつつ、捨て子や行き倒れの世話、道普請(みちぶしん。道路を直したり、建設したりすること)などさまざまな公的役割も担っていた家守(やもり)たちの地位の行方
・賤民廃止令によって賤民身分から解放された人々のその後

など、本書はさまざまな人々の動きを追っていますが、そのなかで1章を割いてとり上げられているのが、遊郭とそこで働く遊女たちです。

遊女のイメージ(画像:写真AC)



 明治維新後、1872(明治5)年の芸娼妓(しょうぎ)解放令によって遊女の人身売買は禁止されましたが、遊郭は結局残ることとなります。人気漫画『鬼滅の刃』では大正時代の遊郭が描かれていましたが、芸娼妓解放令があったにもかかわらず、遊郭というシステムは残り続けていたのです。

 なぜそれが可能だったのか? 遊女たちは芸娼妓解放令をどう受け止め、どのように行動したのか? そういったことを本書は教えてくれます。

人足役を負っていた遊郭

「身分」というと、私たちはどうしても上下関係を考えてしまいがちですが、近年の近世史研究では

「同じ職分の人びとの集団が、何らかの公的役割を担うことによって社会的に認められ、身分が成立する」(50ページ)

という見方が生まれています。

 例えば、農民たちが集団で水利や入会地を管理しつつ年貢などの役を負うことで、「百姓」という身分が形成されるのです。また江戸時代は、江戸の街に武家地と町人地があったように、身分ごとに住む場所が決められていたのです。

 実は吉原の遊郭もこうした身分集団に近いものがありました。五つの町からなっていた新吉原遊郭は、幕府から遊女の公認を得ることと引き換えに、

・江戸城の畳替え
・すす払いの人足
・山王、神田両祭礼の傘鉾(かさぼこ)などの作り物

といった町人足役を負っていました。

現在の吉原大門交差点(台東区千束)。右に「見返り柳」(画像:写真AC)



 さらに吉原五町は、吉原以外での非合法売春の摘発の役目を担っていました。こうした非合法の娼婦は「売女」と呼ばれており、17世紀にはこの摘発のなかで武器を持ち出して戦ったという記録も残っています。

 この摘発で捉えた売女は各町がくじ引きで引き取り、町内の遊女屋が預かって使役することが許されていました。遊女屋にとっては身代金なしで遊女を獲得できるチャンスでもあったのです。

借金の担保にされた遊女

 しかし、その遊郭も18世紀後半から衰退していきます。大名や豪商の遊興が減少し、大尽(だいじん)遊びの対象だった太夫(たゆう)・格子(こうし)といった高級遊女は姿を消していきます。遊女もその客も全体的に中・下層化していくのです。

 そんななか、19世紀の新吉原で続出したのが遊女たちによる放火でした。厳しい待遇に耐えかねた遊女たちが抗議の放火を行ったのです。

現在と明治初期の吉原周辺の地図(画像:時系列地形図閲覧ソフト「今昔マップ3」〔(C)谷 謙二〕)

 遊女屋が遊女を調達するには30両ほどのお金が必要で、遊女屋の経営にはそれなりの資金が必要でした。多くの遊女屋はそのために資金を借り入れたのですが、その担保となったのが遊女たちでした。遊女たちは財として扱われ、ときに換金・転売されました。

 近世社会一般では人身売買は禁止されていましたが、遊女を扱う身分集団の中ではそれが黙認されていたのです。

遊女の自由を奪った抱え主

 この状況は明治維新後もしばらく続きますが、それが一変するのが、前述の芸娼妓解放令です。

 この命令では人身売買を禁止しており、本人の「真意」による売春以外はできなくなりました。政府は芸娼妓に身代金などの返済などを求めることはできないとの指示も出しており、遊郭のしくみは大きく揺さぶられることになります。

 本書では7歳のときに売られ、芸娼妓解放令のときには新吉原の最下層の遊女屋で働いていた「かしく」という女性がとり上げられています。かしくは解放令によって遊女屋から解放され、前の抱え主の政五郎のもとに戻ることとなったのですが、そこで再び奉公に出よと迫られます。

 これに対して、竹次郎という奉公人と結婚することを考えていたかしくは、遊女を辞めたいという嘆願書を竹次郎とともに東京府に提出しました。

「どのよニ相成候共(どのようになっても)、遊女いやだ申候」

という一節を含む嘆願書が本書の121~122ページにかけて紹介されていますが、稚拙な文章がかえってかしくの強い意志を感じさせます。

吉原遊郭で亡くなった遊女の遺体が捨てられた荒川区南千住の浄閑寺の新吉原総霊塔。「生まれては苦海、死しては浄閑寺」の文字がある(画像:写真AC)



 しかし政五郎はかしくを養女とした上で、借金の証文を作成し、かしくを遊女屋に送り込みました。政五郎はかしくを戸主権によって囲い込み、さらに解放令以降の新たな借金は帳消しにならないという条項を利用することで、かしくの自由を奪ったのです。

 その後も、かしくは別の男性(髪結渡世の菊次郎)との結婚を願い出ますが、これも戸主権と新たにできた借財の壁によって阻まれてしまいました。

明治以降に醸成された遊女への偏見

 このようにかしくの願いはかなわなかったわけですが(ただし、菊次郎との1件以後は史料がないので、その後に遊女を辞めることができた可能性はある)、著者はこのかしくをめぐる騒動を追いながら、そこに遊女や遊女の仕事に対する偏見がないことにも注意を向けています。

 竹次郎や菊次郎、あるいは菊次郎の結婚のために力を尽くした菊次郎の親方には遊女への偏見といったものはありませんでしたし、かしくも遊女の仕事に強い嫌悪感も持ちつつも、それを他人に語ることのできない恥ずべき経験とは思っていません。

 しかし、明治以降、遊女への共感や同情、あるいは憧れといったものは消えていき、蔑視のまなざしが前面に出てくることになります。売春が本人の「真意」によるものとされたことで、遊女への偏見は強くなっていくのです。

横山百合子『江戸東京の明治維新』(画像:岩波書店)



 ここでは遊郭と遊女の話を中心に紹介しましたが、最初にも述べたように、本書にはこれ以外にも、旧幕臣や賤民身分の人々など、維新の大きな変化を経験し、その変化の波を乗り切ろうとした人々の姿が描かれています。

 そして、そうした個人の奮闘を通じて、改めて明治維新という社会変革がどのようなものだったのかを教えてくれる内容になっています。

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